タモリ






タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、1945年8月22日 - )はタレントである。テレビ番組の司会者としても知られる。福岡県福岡市南区出身。血液型はO型。男性。田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子は実の従妹。既婚者。身長は自称162cm。また、タモさんとも呼ばれている。
プロフィール
- 森田家は黒田藩の家老職の家系で立派な塀に囲まれた屋敷を持ち、代々の当主は「森田のお殿様」と呼ばれている。
- 本名は一義だが生まれる前までは義一と名付けられる予定だった。これは祖父が田中義一を尊敬しており、あやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。
- 芸名のタモリは、本名の森田を入れ替えたもので、愛称で呼ばれていたのを芸名にした。ジャズメンや芸能人の符丁、放送業界用語で、しばしば言葉を入れ替える(例:金髪→パツキン、銀座→ザギン)のと同様である。
- 「タモリさん」や「タモさん」と言われることが多い。和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコらからは「タモちゃん」と呼ばれている。
- 特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した珍しいタイプのエンターテイナーである(その為、弟子希望者が来ても、「自分の芸は誰かに教えてもらった物ではないので、人に教えようが無いから」と断っている)。
- ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人BIG3の一人といわれる。タモリは、明石家さんまを呼び捨てで「さんま」、ビートたけしを「たけちゃん」と呼ぶ。横澤彪は「タモリは天才。ビートたけしは努力家。タモリの脅威のスピード出世を見ればわかるでしょ」と両巨頭を評している。
- 福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校、九州英数学舘予備校を経て早稲田大学第二文学部除籍(本人は中途退学ではなく「除籍」と強調)。もともとは無線技師を志したが数学の成績が劣悪であったため文系に転向したという。
- 1986年にユーモア大賞を受賞している。
- また、彼が出演している番組で、「森田一義アワー 笑っていいとも!」(フジテレビ)、「ミュージック・ステーション」、「タモリ倶楽部」(いずれもテレビ朝日)は20年以上続いている長寿番組である。
デビュー以前
- 早稲田大学在学中に、モダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、タモリのラッパは笑っている」などと(妙な)批評を受け、主にMCを担当することになった。この事は、のちの話芸の基礎ともなった。ちなみに、1993年4月10日に福岡ドームで行われた「ドリームライブ in 福岡ドーム」では、井上陽水の曲「海へ来なさい」の間奏部分でトランペットの独奏を披露している。
- 大学の授業料を使い込み(友達に授業料分の金を貸して返ってこなかった)、除籍扱いで中退したといわれるが、本人は早大卒であることを番組内で告白している。早大中退としているのはかっこいいからだとも語った(尚、この卒業話さえもタモリの作り話であるとの説もあり、卒業・中退・除籍…何が真実かは未だに謎である)。ちなみに、1997年に早稲田大学が発行した広報紙のインタビュー記事では、自分は(冒頭の理由で)学籍を1年間で失ったと発言しているが、大学側がこれらの事実関係を確認して掲載しているのかは不明。(ちなみに後年、森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当した)
- その後、郷里の福岡へ戻って就職。朝日生命に保険外交員として勤務する。この頃「しばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた」という。これが、元祖の藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。
- 喫茶店の雇われマスター時代、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元福岡では変なマスターとして有名であった。
- ボウリング場の支配人だったとき、コンサートのため福岡を訪れたジャズピアニストの山下洋輔と知り合う。当時の山下はライブの打ち上げとしてホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としていた。ある晩、当時の山下洋輔トリオの一員であったサックス奏者の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで虚無僧ごっこをして遊んでいた。ファンであったタモリは廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら踊り始めた。中村はその見知らぬ男の非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。(2006年4月の『SMAP×SMAP』で語った際は、虚無僧ではなく歌舞伎の物まねをしていた中村に、相手が必要だと直感的に思ったタモリが飛び入りし、相手役を務めたと語っている)。狂乱の夜が明け、白ワイシャツと黒ズボンにズック靴姿になったタモリは名前を聞かれ「森田です」とだけ告げて立ち去るが、博多のジャズバーで後日発見されることとなる。その後、新宿ゴールデン街の伝説のバー「ジャックの豆の木」の常連のカンパによって上京を果たす。「ジャックの豆の木」で開かれた独演会に臨席した常連の一人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた、とされる。この間、赤塚は仕事場のロッカーの上で寝ていたらしい。タモリ曰く高級居候であったらしく住居は玄関と勝手口がついた広いマンション、車はベンツだったとか。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。
- 赤塚不二夫は自書のマンガで、「これだけ一緒に暮らしているんだから、愛し合う事も出来るんじゃないか」と、二人でゲイに挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いている(タモリも、「昔ゲイに挑戦した事があるが。気持ち悪くて出来なかった」と発言している)。
芸能界入り
- 30歳で芸能界入り。赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。
- 東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後も『中洲産業大学(当然架空)芸術学部西洋音楽理論教授』(タモリ教授と森田一義助教授の二人がいる?)という肩書きで、「ハナモゲラ語」「イグアナ」「4カ国親善麻雀」などの珍芸をテレビで披露、ブラックユーモア混じりな活躍ぶりで、視聴者の心をつかんだ。特にそれまで余りモノマネの対象とされていなかった、朝鮮語、ベトナム語を取り上げた点は独創的だった。モノマネはタモリの十八番であり、後年に至るまで「鶏」「トロを食べる人」「携帯電話」「生まれたての馬」など、ときとして突拍子もない題材によるモノマネを見せて好評を得ている。
- その初期に開発されたモノマネの一つに、作家・歌人である「寺山修司」がある。このネタは、しゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容がオリジナルながらインテリくさくもっともらしい内容の「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」という点で、物真似のスタイルとして画期的であった。これはそれ以前の(政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする)「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、以後のモノマネ芸に多大なる影響を与えた。当時の先鋭的な文化人やジャズメンからタモリが好まれた理由の一面がここにある。
- 1976年10月から1983年9月まで水曜1部に出演したラジオ番組「オールナイトニッポン」(タモリのオールナイトニッポン)も、タモリの人気を上げる一因となった。独創的な企画で人気を集めたが、NHKラジオで実際に放送されたニュースの音声を編集して、まったく違う爆笑ニュースに仕立て上げる「つぎはぎニュース」は、NHKから抗議を受けて中止となった。しかし、このときエアチェックされた音源が後になってもひそかに広まったため、今では伝説的な企画となっている。
- ラジオ番組では、当時人気だったバンドオフコースを「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」と評し、オフコースファンとの対立を起こしていた。
- 同時期、伝説的なTBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」の臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到したというエピソードがある。ちなみにザ・ベストテンの司会者の1人であった黒柳徹子が司会する長寿トーク番組「徹子の部屋」の年末放送では、タモリの出演が毎年の恒例になっている。1983年にはデビュー8年目にして「NHK紅白歌合戦」の総合司会(白組司会者は鈴木健二、赤組司会者は黒柳徹子)という快挙を成し遂げている。
- 80年代、タモリの半生を描いた「戦後タモリ史」という番組が放送された。
「笑っていいとも!」以降
- その後タモリは、フジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『森田一義アワー笑っていいとも!』(タイトル、司会者のクレジットテロップは本名を使用)のメインパーソナリティとして一世を風靡した。しかし現在は、そつのない人あしらいのうまさと知性を買われて、各種のバラエティー番組の司会者としての穏健な活動が主となり、彼独特のエキセントリックな個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなった。
- 2002年に『笑っていいとも!』は放送20周年を迎え、放送5000回を、2006年には24周年を迎え、放送6000回を達成した。単独司会者による生放送の長寿記録番組としてギネスブックにも認定されている。タモリはこの番組について「やる気のある者は去れ」「俺は努力ということをしない」「番組を長く続けるコツは、反省しないことだ」などの名言を残している。通常はどのテレビ番組にでもある番組終了後の反省会が、「いいとも」では一度も開かれていない。これもまたタモリらしい逸話である。
- 因みに、『笑っていいとも!』の裏番組『午後は○○おもいっきりテレビ』(日本テレビ系)の司会者・みのもんたとは誕生日が同じである(みのの方が1歳年上)。さらにさらに、もう1つの裏番組『ワイドスクランブル』(テレビ朝日系)については、司会者・大和田獏の妻岡江久美子とは誕生日がたった1日違い(23日)という、奇妙な由縁である。
- 山本晋也監督の映画『下落合焼き鳥ムービー』に所ジョージらと共に出演している。
- 写真家の浅井慎平が監督した映画『キッドナップブルース』(1982年)に所ジョージらと共に出演している。
- 芸能界デビュー後にトム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出している。
- オールナイトニッポンの著名なパーソナリティであるタモリは、2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合はニッポン放送への出演を取りやめる、と所属事務所を通じて公言していた。
- ちなみに、いいともでのタモリのサングラスは、1980年代に1回、1990年、1991年、1996年、2002年の5回変わっている。
事件
ヨットの柱にぶつかる事故
人身事故
- 2000年5月6日、自らが運転する乗用車が東京・目黒区八雲の都道で人身事故を起こしていた。警視庁碑文谷署の調べでは現場は信号なしの交差点で起きた。車が左折した際、右方向から直進してきたオートバイと接触した。オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた自営業の男性と同乗していた女性が足に軽い打撲で救急車で近くの病院に搬送された。
ゴルフ中での事故
- 2001年11月4日、「笑っていいとも!」放送前日、関東近郊のゴルフ場でプレイ中、知人の男性が打った3打目が左こめかみ付近の眼鏡のつるに当たる事故に見舞われプレー中断。そのまま近所の病院に搬送されたが左目付近が赤く腫れ上がったためさらに都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。なお、タモリの生放送レギュラー番組「笑っていいとも!」は各曜日レギュラー陣(2001年度下半期当時)が代役を務め、「ミュージックステーション」ではタモリとともに司会を務めているテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月~2004年3月まで担当)が単独で司会を務めた(「ジャングルTV~タモリの法則~」・「タモリ倶楽部」は事故が起こる数日前に収録されたため、通常通りに放送)。プロ野球シーズンオフ(10月~3月)に放送されているラジオ番組「タモリの週刊ダイナマイク」は、ニッポン放送アナウンサーうえやなぎまさひこが代役を務めた。なお、タモリ本人は11月10日に都内の病院を退院し11月15日の「笑っていいとも!」で復帰を果たした。それ以来、ゴルフを恐れるようになった。また、翌年の最初のいいともの企画だった書初めでは、今年の目標として「球よけ」と書いてネタにしていた。
私的な一面
- 多才、多趣味人としても知られ、音楽以外にも鉄道や船舶、BCL(ラジオたんぱでBCL番組を担当していた実績も持つ)、アマチュア無線(コールサインはJA6CSH、現在は失効)、福岡藩伝柳生新影流の居合道二段、料理、ダム、オーディオなどに造詣が深い。植草甚一の死後、膨大なレコードコレクションの散逸を防ぐために、その全てを一括して引き取ったことでも知られる。週末は沼津のマンションに泊まり、釣りを楽しんでいるという。
- しばしば『タモリ倶楽部』で鉄道を愛好する企画を行い、また『笑っていいとも!』のゲストが原田芳雄だった時には二人の対談は終始鉄道の話だけで終わる、というほどの鉄道マニア。鉄道のなかでも「線路マニア」であることを自称している。すなわち、線路そのものが連なる様や分岐点の複雑な造詣、またそれらを列車が通過する際の音が好きである、としている。その他、鉄道路線の中では常磐線が、鉄道会社では京浜急行電鉄が好きらしい。原田芳雄の例に現れているように、自身の番組で鉄道マニアと共演した際には、鉄道トークを行うのが通例で、観客や一般視聴者をわざわざ無視する宣言をしてまで独自の世界を繰り広げる。他に、ミュージックステーションにロックバンドくるりが出演した際にも、ボーカルの岸田繁(こちらも自他共に認める鉄道マニアである)と楽しそうに鉄道トークをしていた。
- ちなみに、岸田とタモリはその後も交友を続けているらしく、くるりのアルバム『NIKKI』のSpecial Thanksの欄には「森田一義」とクレジットされている。
- ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他が認めるほどハイレベルである。
- 坂道が好きなことでも有名。2000年には、山野勝と日本坂道学会を結成し副会長を自称する。同会副会長として、過去にはTOKYO1週間誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載していた。休日には、好みの坂をまわり、坂道の写真を撮ることがあるという。
- 船が好きで、自らヨットを所有する。
- もっとも恋愛物ドラマは苦手なため、『タイタニック』を観るのを悩んだという。結局早送りして船のシーンだけみたらしい。
- 食事は和食以外一切食べない和食党として知られる。
- 鯖の塩焼きが好物、牛乳・セロリが苦手。
- 自ら日本一の変態であることを公言し、「日本変態協会」(NHK)会長を名乗る。特殊なスケベであり、自ら「俺はオッパイ星人」と大の乳房マニアであることも公言している。芸能界で唯一「創作は全て変態である」という『創作変態論』を唱えている。
- ミュージカルが大嫌い。また、リズムを取りながら上体を左右に軽く揺らしながら歌う合唱団も嫌う。しかし、「いいとも」では金曜日のコーラスのコーナーで指揮者を担当している。
テレビで見せる一面
- 『笑っていいとも!』等で間寛平と共演するとお互い猿の真似をしてスタジオ中を駆け回るのが恒例となっている。
- フジテレビ系列の水曜夜のバラエティ番組『トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~』で「ガセビアの沼」のコーナーがあるが、そのコーナーの検証VTRに出演の女優緒川たまきの「ウソつき」の演技が好きであり、高橋克実・八嶋智人とともに話の本筋を忘れてはしゃぐほどである。
- 『笑っていいとも!』において、放送日にいいともレギュラーが誕生日のときはケーキをプレゼントする。誕生日ケーキのロウソクは普通は本人に消させるが、若手芸人などのときはタモリが強引に息を吹いて消していることもある。
- また同番組中に素人参加のコーナーで、オーディションに選ばれた素人出演者がタモリに手錠をかけ、そのかぎを飲み込むというハプニングがあった。そのときはめったに見せない焦りと怒りの顔を見せたことも意外な一面である。
- 『笑っていいとも!』でテレフォンアナウンサー導入後(主にフジテレビアナウンサー、特に1999年以降)、アナウンサーに食事をご馳走したり、相談にのってアドバイスをしたりするらしく、良き相談者としての一面もある(但し、女性アナウンサーのケースが多い)。ちなみに番組内でテレフォンアナを紹介する際、女性アナは呼び捨て、男性アナは「君」付けである(理由は不明)。
- お気に入りの女性アナウンサーと共演するときは多少ニヤケぎみの笑顔であることが多い。大抵は褒めるか、困惑させるかのどちらかである(例:「いいねぇ~」「こんな私を叱ってください」など)。内田恭子、相川梨絵(共同テレビ)、戸部洋子、斉藤舞子、平井理央がお気に入りだが、内田恭子や戸部洋子には冗談を言って困らせることが多いのに対し、相川梨絵や平井理央にはあまり困惑させるようなことをしない傾向が見られる。余談であるがタモリ曰く、「テレビ朝日のアナウンサーは日本人顔、フジテレビはチワワ顔」。
- 『タモリのジャポニカロゴス』では内田恭子からのご褒美をめぐって、関根勤や山田五郎を相手に本気で問題に答えるという場面が幾度かあった。
- テレビ朝日系列の金曜夜の生放送音楽/バラエティ番組『ミュージックステーション』の司会者(初代は関口宏で、番組開始から半年間務めた。現在のタモリは2代目)としても有名で往年の玉置宏、芳村真理、黒柳徹子と並び日本でアーティストの事を良く知る芸能人でもある。だが毎年、年末恒例の「ミュージックステーションスペシャル スーパーライブ」の開始時の特効が弱いらしくて「あのオープニングの特効には毎年、困るから出来るだけ抑えて欲しい」と本音を漏らしてしまう事もある。
- 近年は、日本テレビでのテレビ出演はほとんどない。また、同じBIG3のビートたけし、明石家さんまとは近年共演がない。
- 同じタレントの島田紳助とは「森田一義アワー笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」で3回、「ミュージックステーション」で1回、「今夜は最高!」で2回ほか、「FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島」などの特番で数回共演している。近年はあまり共演はなく、2005年の「FNS25時間テレビ」では2人共出演していたが、タモリは「テレビヤの種」・「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」に、紳助は「トリビアの温泉」・「さんま・中居の今夜も眠れない」に出演していたため共演はなし。
- また、紳助が司会を務める特番『オールスター感謝祭』初期の頃、タモリは生放送中に生電話をするという、とんでもない事件があった。タモリは「感謝祭」に一回も出演しておらず、なぜ突然生電話をかけたのか不明のままである。
- さらに紳助は、2003年秋に『謎を解け!まさかのミステリー』放送開始会見の際、タモリが司会を務める『ミュージックステーション』に「テレビ朝日には死んでもらいます。」と宣戦布告をした。最初は「Mステ」「ミステリー」共に視聴率は互角だったが、「ミステリー」が紳助の傷害事件での自粛やルール変更、さらに他の番組との視聴率戦争のことから、「ミステリー」は視聴率が低迷してしまい(末期の頃は視聴率が1桁になっていた回もあった)、「Mステ」は今でも高視聴率を獲得しており、その結果、「ミステリー」は2006年3月10日放送分を以って終了してしまった。
- 毎年、フジテレビ系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では、「まあ、毎年この時間が一番、眠いんですよね」というボケで、出演者に突っ込まれるのが恒例である。
- 2005年の『FNS25時間テレビ』の1コーナー「テレビヤの種」の中で放送した戦後60周年平和祈念/自衛隊・米軍大運動会では余りの速さに笑いながら驚愕する。
- 2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」のテレフォンショッキングのコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。(この時、司会はナインティナインの岡村隆史が行った。)
- 大橋巨泉、ルー大柴、ユースケ・サンタマリア、出川哲朗、ふかわりょうがゲスト出演する際は何かとつけてテレフォンショッキングを出演拒否しようとしている。そういったゲストの持ってきたポスターを破く声真似もおなじみ。
- 自宅では緑色のビキニブリーフ一枚になり懐かしきイグアナの生態のまねをするのが、芸能人仲間らの証言である。
- プライベートで行動するときは特に変装しないそうだ。
- なお趣味のゴルフと鉄道の時間も確保すると言うことで、これ以上仕事を増やすことに消極的である。
- 最近は、「要潤に似てる」と言われたことがあるらしく、「いいとも」の客席からブーイングを浴びながらもタモリいわく「世間がそう思ってるんだから・・・」と強調している。
- よく言う冗談は「俺はジャニーズシニア」や、「俺は『ZOO』に、KAZU(カズ)の名前で所属していた」など。
- 最近は福山雅治らとメールや電話のやり取りをしている(『笑っていいとも!』2006年5月15日放送分及び『MUSIC STATION』2006年5月19日放送分より)。ちなみにタモリの携帯電話はナインティナインからもらったものである。
- 『森田一義アワー笑っていいとも!』の楽屋:糸井重里が主幹するサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」サイト内の糸井重里撮影「気まぐれカメら」(2006年6月19日14時18分投稿分)にて、タモリのいいとも楽屋写真(一部)が公開されている。本棚には、『現代漢和辞典』や『五體字類』(栞がはさんである)などの書籍が確認できる。
- 横澤彪の著書によればタモリは30歳を超えて芸人に転向したこともあり驕り高ぶった所も見せず、俺たち芸人なんか世間でまじめで働いてる人から見れば詐欺師稼業みたいなもんだ、というのが持論だという。
出演
テレビ
レギュラー
単発
※上記番組では本名の森田一義名義。
過去
ラジオ
過去
CM
タモリの関連アルバム
- 『タモリ1』
- 『タモリ2』T-SQUARE
- 『タモリ3戦後日本歌謡史』
- 実際には「タモリ2」以前に録音されていた(当初はこの内容が「タモリ2」になるはずだった)。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる。
- 『ラジカル・ヒステリー・ツアー』
- 『HOW ABOUT THIS』(大マジなジャズ・アルバム)
- 『永遠の絆』・なぎら健壱コンサート(MC・Mr.タモリとして参加。)
- ほかに、大瀧詠一がプロデューサーとして招かれたものの、タモリがヴォーカル録りをしないまま終わった幻のアルバムの企画があったと言われている。
- The SQUARE(現T-SQUARE)のアルバム『マジック』内の2曲にトランペットで参加している。
書籍
- 『タモリのTOKYO坂道美学入門』 ISBN 4063527239 2004年
- 『タレント狂殺人事件』作品社 ISBN 4878938013 1983年
関連項目
人物
デビュー直前・直後
全盛時代
その他
外部リンク