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中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。在籍選手については中日ドラゴンズの選手一覧参照。

中日ドラゴンズ
チーム名中日ドラゴンズ
加盟団体セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度1936年
チーム名の遍歴名古屋軍(1936年1943年
→産業軍(1944年
→中部日本軍(1946年
→中部日本ドラゴンズ(1947年
→中日ドラゴンズ(1948年1950年
→名古屋ドラゴンズ(1951年1953年
→中日ドラゴンズ(1954年~)
フランチャイズ愛知県名古屋市
本拠地ナゴヤドーム(1軍)、ナゴヤ球場(2軍)
収容人員38414人(ナゴヤドーム)
オーナー白井文吾
親会社中日新聞社
監督落合博満
タイトルリーグ戦:6回、日本シリーズ:1回
(優勝年度)(リーグ戦)1954、1974、1982、1988、1999、2004
(日本シリーズ)1954

球団の歴史

1リーグ時代

  • 1936年新愛知新聞を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大中根之、白系アメリカ人で捕手ハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。新愛知新聞傘下の國民新聞でも大東京軍を結成。日本各地に同様の球団を結成、大日本野球連盟を組織し、独自のリーグを作ろうとしたが失敗。職業野球連盟のリーグ(つまり現行のプロ野球リーグの前身)に加わった。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。
  • 1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。
  • 不人気による慢性的な戦力不足の戦前職業野球において、大沢清西沢道夫松尾幸造村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人阪神に及ばず、優勝は遠かった。
  • 1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞取締役の大島一郎(旧新愛知新聞の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。
  • 1946年リーグ戦再開に伴い中部日本新聞が経営に復帰。チーム名を中部日本(ちゅうぶにほん)として再出発。
  • 1947年のニックネーム導入にあたり中部日本ドラゴンズに改称。しかし当初、オーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社長)は自分の名前から「タイガース」にしたかったようだが、既に大阪タイガースが存在していたので、止むを得なくオーナーの干支であったからドラゴンズと名付けた。仮に大阪タイガースが存在しなかったら、中日タイガースになっていた可能性が高い。服部受弘野手投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二古川清蔵金山次郎小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。
  • 1948年中日ドラゴンズに改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。
  • 1949年天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。

セ・リーグ加盟後

近藤・山内監督時代

星野・高木監督時代

  • 1987年ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒット・ノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。
  • 1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差をつけられ最下位。7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。ところが、翌7月9日から、驚異の大進撃が始まる。連敗したのは2連敗を2回だけ、50勝15敗3分という凄まじさで、当時を覚えているファンが異口同音に「負けた記憶がない」と言うほどである。10月7日、文句なしで6年振りの優勝。中日から生え抜き監督での優勝は史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝いた。しかし、昭和天皇の体調悪化により優勝パレードが自粛された。尚、この年の最大8ゲーム差からの逆転優勝は、1996年に「長嶋巨人」の11.5ゲーム差逆転(いわゆる「メークドラマ」)が成されるまで、セ・リーグの逆転優勝最大ゲーム差記録であった。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。星野監督は1991年を最後に勇退。
  • 1992年、高木監督が就任。12年振りの最下位に沈むも、成績は60勝70敗。優勝したヤクルトは69勝61敗で、9ゲーム差しか離れていなかった。この年のセ・リーグは、6球団全て60勝台という稀にみる混戦だったが、その原因は、特に後半戦で中日と大洋が上位をいじめ抜いたことにある。
  • 1993年は、今中慎二山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝くとともに、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。
  • 1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱槙原斎藤桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。しかしながら、首位打者がアロンゾ・パウエル、本塁打&打点王に大豊泰昭、最多勝に山本昌、最優秀防御率が郭源治と、投打にタイトルを総なめしたうえ、優勝を最後まで争うこの好成績に、星野が「守道さんがやったほうがいい」と受諾を見送り、高木は続投した。しかし翌年は不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。
  • 1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり、期待外れに終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、読売の優勝マジックが1になっても中日はしぶとく勝ち続け、9月24日から6連勝。特に6連勝目のナゴヤ球場での広島戦は、球団史に残る名試合となった。中日が負ければ読売優勝という状況下、7回1点差に迫られてなお無死満塁という絶対的危機でリリーフに立ったのは、エース今中慎二であった。今中はまるで格闘技会場のような「今中コール」の中、金本知憲の犠牲フライ1本でこの大ピンチを凌ぎ、試合は延長戦に突入した。そして延長10回、地鳴りのような大声援の中でパウエルのサヨナラ打が飛び出し、遂に10月6日ナゴヤ球場公式戦最終試合における読売との直接対決に持ち込んだのであった。そして10月6日、いわゆる『10.6』の大決戦が行われる。中日はこの試合を含めて、残り3試合を全勝すれば読売とのプレーオフというギリギリのところであったが、惜しくも敗れ、2年前の『10.8』に続いて読売に苦杯を舐めた。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルと備えた主軸は強竜打線として恐れられた。
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ナゴヤドーム移転

  • 1997年、ナゴヤドームがオープン。新本拠地として新時代の一歩を踏み出す。ナゴヤ球場から一転広い球場になった為打線が低迷し5年振りの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が本領をいかんなく発揮し39セーブポイントを挙げ、また山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝いた。このオフより、ドームに対応した野球を目指し、抜本的な大改革が行なわれた。守備力と機動力の野球を推進するため、パウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘、大豊を放出して交換で関川浩一久慈照嘉を獲得する一方、韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団した。
  • 1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には遂に1ゲーム差に迫った。しかしこのマッチレースもかわされ、横浜に38年振りの優勝を許した。投手コーチに元読売の宮田征典を招聘し梃入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得。日本生命から福留孝介がドラフト1位で入団。
  • 1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、この年新人の岩瀬仁紀が1年目から65試合に登板して鉄人振りを発揮し、サムソン・リー落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年振りのリーグ優勝を祝福した。この年は初めて前半戦を首位で折り返しての優勝であり、これまでのジンクスを打ち破った。しかし、ナゴヤドーム移転後初の年の日本シリーズでは山崎の欠場が響いたのか、福岡ダイエーホークスに1勝4敗で敗れてしまう。更に敵将の王監督がナゴヤドームでの初の胴上げ監督となるなど中日にとっては屈辱だらけのシリーズであった。
  • 2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて胴上げを許す。
  • 2001年、4年振りのBクラスに終わり、星野監督は勇退。この年から、井端弘和がレギュラーに定着。山田投手コーチが監督昇格。

山田・落合監督時代

  • 2002年谷繁元信が横浜からFA移籍。福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。
  • 2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団を希望するケビン・ミラーとの間に騒動があった。その代わりロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者。さらに、山内は愛知県一宮市出身だったが、山田は東海3県ではなく秋田県出身であったことも不利に働いた)だったことや、山田自身の生真面目な性格から、選手やOBとの軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガースに善戦していたのに休養させられたことは、ファンの物議を醸した。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督代行を務めた。なお阪神には最終的に勝ち越し、完全優勝は阻止した。
  • 2004年、1988年優勝時の4番打者である落合監督が就任。落合は1987年以降チーム内に染みついていた星野カラーを一新。その結果見事就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より、控え選手も数多く起用し、守り勝つ野球を見せた。しかし日本シリーズでは、本拠地ナゴヤドームで1勝3敗と勝ち越せなかったことなどが災いし、西武に3勝4敗で惜しくも敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。ただ、それでも10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。
  • 2005年横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは難聴障害者の石井裕也を獲得。その他の新人もすべて即戦力を期待されており、とくに投手の層はさらに厚みを増した。しかし、過去半世紀以上にわたり5回連続して日本シリーズで失敗したため、チームでかなりのパ・リーグアレルギーを持っておりプロ野球改革元年としてセ・パ交流戦が行われるも苦しい戦いを強いられる。この年も、オールスター前後の11連勝など、後半戦には粘り強さを見せ首位の阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの次の試合で2度とも敗れ9月に入り失速、連覇を逃してしまった。
  • 2006年は“ぶっちぎり”で優勝することを落合監督が公言、52年ぶりの日本一を狙う。
  • 2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。これは、ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという両チームにとって好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦の開始によりロッテ主催の公式戦が始まったことで千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して宿舎契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあったからだとされている(1996年に復帰した星野監督の希望で赤坂プリンスへ宿舎を変更したという経緯から、今回の宿舎変更は球団による星野カラー払拭のためというのが本当の理由ではないかとも言われている)。

落合監督の“見えぬ”偉業

  • このことはメディアではほとんど報じられていないのだが、2003年以前の中日は優勝してから次に優勝するまでに最短でも6年(1982年→1988年)かかっていた。しかし、落合監督が監督就任1年目で優勝したため中日球団が持っていたこの最短記録を5年(1999年→2004年)に縮めることができた。これは落合監督の目に見えぬ偉業とも言えよう。2005年は連覇こそ逃したものの、次の2006年に優勝すればこの記録を一気に2年にまで縮めることができるので今季の行方が注目される。また、歴代の中日監督で1つの連続任期中に2回以上優勝に導いた監督は落合本人を含めまだ一人もいない(星野仙一は中日監督として合計2回優勝に導いているが、第一次政権(~1991年)と第二次政権(1996年~)にそれぞれ1回ずつであるのでこれに該当しない)。2006年に優勝すればこの記録も更新することができるのでこの行方にも注目したい。

チーム成績・記録

  • 優勝(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年)・6回
  • 日本一(1954年)・1回
  • Aクラス(1938年秋、1943年、1947年、1950年~1959年、1961年~1963年、1965年~1967年、1971年~1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年~1989年、1991年、1993年~1994年、1996年、1998年~2000年、2002年~2005年)
  • Bクラス(1937年春~1938年春、1939年~1942年、1944年、1946年、1948年~1949年、1960年、1964年、1968年~1970年、1976年、1978年、1980年~1981年、1983年、1985年~1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)
  • 最多勝 89勝(1950年)
  • 最多敗 83敗(1948年、1964年)
  • 最多引分 19分(1982年)
  • 最高勝率 .683(1954年)
  • 最低勝率 .283(1937年秋)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)
  • 最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)
  • 最多本塁打 191本(1984年)
  • 最少本塁打 1本(1937年春)
  • 最高打率 .282(1984年)
  • 最低打率 .182(1941年)
  • 最高防御率 1.41(1943年)
  • 最低防御率 4.75(1995年)

歴代本拠地

チーム特徴

  • 杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出身者が多い。
  • ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞の杉山虎之介社長の干支「辰」にちなむ。ちなみに、1948年に「中部日本ドラゴンズ」から「中日ドラゴンズ」へ名称を変更しており、新聞や親会社の名前より先に「中日」と改称している。
  • 2位になることが非常に多いチームであり、1950年に2リーグ制になってから2005年までの56シーズンで2位に21回なっている。この回数は、2リーグ制移行後の両リーグトップである(1990年代以降だけでも1991年、1993年、1994年、1996年、1998年、2000年、2003年、2005年の8回)。そのため、ファンの間では2位が中日の「定位置」と呼ばれることもある(「万年2位」というニュアンスも含むので、あまりいい称号ではない。その証拠に「サンデードラゴンズ」で「もう2位はいらない」というナレーションが入ったこともある)。21回の2位の内、読売が優勝したシーズンが12回あり、特に1963年、1994年、1996年、2000年は、直接対決で読売に敗れて優勝を決められた。
  • 2位が非常に多いのは、読売が2リーグ制移行後に30回も優勝していることもあるが、中日自体のここ一番で勝ち切れない体質も指摘されている。1990年代以降を見ても、1991年の広島、1993年のヤクルト、1994、1996年の読売、1998年の横浜、2005年の阪神との優勝争いが挙げられる。いずれも一時期は絶望的な状況に追い込まれたにもかかわらずそこから相手を猛追して、あと一歩というところまで相手に迫りながらもそこからあと1勝が出来ずに優勝や日本一を逃している。特に2005年の阪神には一時は8ゲーム差まで突き放され、そこから2度も0.5ゲーム差まで追い詰めたにもかかわらず、あと1勝ができずに一度も首位の座を奪還できなかった。
  • 後述するように、監督の途中休養・退任が非常に多いチームである。
  • 過去のデータからパ・リーグとの対戦に苦手を感じるファンは多い。2005年のセ・パ交流戦では、それまでの好調から一転して前半戦で大きく負け越し、新規参入の楽天には本拠地ナゴヤドームで3タテを食らうなどして11球団で唯一負け越すなど大きな屈辱を味わった。
  • 3~4年程度の周期でコンスタントに大きな低迷の年が来るが、その翌年はほとんどの場合において優勝争いを演じるという稀有な特徴があり、また、読売との優勝争いは、球史に残る名勝負となる。低迷の年は、ファンから「中日“ドベゴンズ”」(「ドベ」は名古屋弁で「ビリ」の意)と揶揄されることもある。
  • 日本シリーズの通算成績は13勝23敗(6回出場・日本一1回)、勝率.361は楽天を除く11チームの中で最低であり、4回出場して1回も優勝できなかった近鉄の勝率.385さえ下回っている。

ユニフォーム変遷

  • 1936年 球団創設時のチームカラーは黒。左袖には金のシャチホコをモチーフにしたマークがつけられていた。
  • 1937年1938年 金のシャチホコがユニフォームのマークとなり、その下には「NAGOYA」のマークがつけられていた。また、新愛知新聞のマークが左袖に付けられた。
  • 1939年1940年 球団創設時のユニフォームを復活。ロゴが黒で縁どりが赤。
  • 1940年 ナチスハーケンクロイツを参考にしたロゴが登場。左袖にポケットがないのが特徴。
  • 1940年~1942年 名古屋の「名」マークが赤に変更され、前立てラインが廃止される。
  • 1943年1944年 国防色の採用が義務付けられ、「名」マークが廃止された。
  • 1946年1947年 「CHUBUNIPPON」のロゴ登場。ビジター用に当たるグレーのユニフォームに「CHUNICHI」のロゴが登場。当時はペンキで書いていた。
  • 1948年 この年から中日ドラゴンズとなるが、スペルが「Doragons」となっている。ビジター用はライン部分をマイナーチェンジ。ホーム用のロゴはドジャースを意識していた。
  • 1949年 中日の「C」と名古屋の「N」を組み合わせたロゴが登場したが選手からの評判が悪く1年で廃止された。
  • 1950年1951年 2リーグ分裂を機にユニフォームのスペルを「Dragons」に変更。また、夏場に縦縞ユニフォームが登場。
  • 1952年1959年 球団名が名古屋ドラゴンズとなる。その後名鉄が球団経営から撤退し中日ドラゴンズに戻るが、ユニフォームは継続使用された。1956年からビジター用が「CHUNICHI」に変更。帽子マークは名古屋時代は「N」マークだったが、中日になってからは「C」(書体は後の広島と同じもの)となった。
  • 1960年1961年 胸番号の装着を機にフルモデルチェンジ。えび茶が採用され派手なイメージとなる。帽子に中日の「C」とドラゴンズの「D」を重ねたマーク(CDマーク)が初登場。
  • 1962年 濃人監督の出身球団・名古屋金鯱のチームカラーである紺と山吹を採用したユニフォームが登場。同時に帽子のマークを変更しCDマークが1968年途中まで使われたデザインとなる。
  • 1963年1964年 水色に近い明るいブルーが登場。同時に帽子・アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更。※いわゆる「ドラゴンズ・ブルー」のユニフォームが初登場。理由は主催試合の中継権をもつ中部日本放送東海テレビ放送が1964年から東海地区では初のカラー放送を開始するためそれに合わせたためだといわれている。
  • 1965年~1968年 西沢監督の就任を機に紺と赤を基調としたユニフォームに変更。1967年からは「Dragons」のヒゲが長くなり、1968年からはノースリーブユニフォームも登場(後述)。
  • 1969年1973年 ノースリーブの反省からフルモデルチェンジ。ビジター用は1963年から2年間使われていたスタイルの復活だった。チームカラーがブルーに。帽子のCDマークもドジャースを意識したようなブロック体に変更。
  • 1974年1986年 ニット素材の特長を生かした太いラインが登場。1981年に2つボタンとなり、1984年にVネックとなる。13年間使用。
  • 1987年2003年 ドジャース・スタイルにフルモデルチェンジ。1995年から番号・背ネームの書体が変更される。ホーム用は17年間、ビジター用は15年間の長きに渡り同一デザインをキープした。帽子マークは筆記体の「D」に変わり、'97年以降はブロック体に変更された。ビジターは2002年のみツートンカラー、2003年にはライン入りのものに変更された。
  • 2004年~ 落合監督就任とともに1969年から使われたCDマークが復活。ビジターにツートンが復活。2006年からホーム用左袖部分に「中日新聞」のロゴ入る。

最近でこそ1つのユニフォームの使用期間が長くなっているが、昔は頻繁にデザインを変更していた。これは親会社である中日新聞社が新愛知新聞社と名古屋新聞社(名古屋金鯱軍の親会社)の合併によって出来たためで、中日新聞社の社長の座を新愛知系・名古屋新聞系と交互に2-3年間隔で交代していたからである。「親会社の社長が交代すれば球団社長・監督・ユニフォームを変更」を繰り返した結果、「親会社の社長交代が球団強化の最大の障害になっている」と批判されることとなった。

歴代監督

※太字は優勝達成監督
※1 ここから産業
※2 ここから中部日本
※3 ここから中部日本ドラゴンズ
※4 ここから中日ドラゴンズ(第1次)
※5 ここから名古屋ドラゴンズ
※6 ここから中日ドラゴンズ(第2次)
※7 1961年から1962年の登録名は濃人貴実
※8 1967年は5月18日まで指揮、5月30日に復帰するまでは近藤貞雄が代行
※9 1968年は6月24日まで指揮、残り試合は本多逸郎が代行
※10 1986年は7月5日まで指揮、残り試合は高木守道が代行
※11 1995年は6月2日まで指揮、残り試合は徳武定祐島野育夫が代行
※12 2000年は5月6日まで指揮、5月12日に復帰するまでは島野育夫が代行
※13 2003年は9月9日まで指揮、残り試合は佐々木恭介が代行

永久欠番

※中日出身者で名球会に加入している選手が現役時代につけていた背番号(41・1=高木守道、14・41=谷沢健一)はすべて永久欠番にはならず、在籍選手での会員である立浪和義の背番号(3)を永久欠番にする話もない。これは中日での永久欠番の条件が日本一に貢献した選手に限られるためと言われている。

※ただし、1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)が永久欠番になっていないのは、一旦引退しながら1961年大毎オリオンズで現役復帰したからだと推測される。このことから、中日での永久欠番には中日で現役生活を終えることも条件の1つに含まれると考えられる。

マスコット

球団マスコット

球団マスコットは以下の3体。

  • ドアラ - 名古屋市千種区東山動物園コアラにちなんだキャラクター。アクション担当。背番号は000、のち1994。2003年には、期間限定マスコットとして、ゴールデンドアラも登場した。珍プレー好プレーでイジられる姿がよく映る。
  • シャオロン - 下記で述べるように2匹は龍の子供という設定である。シャオロンは龍の子供を中国語で“小龍”(しゃおろん)と読むためそこから名付けられた。青色。背番号は777、のち1997。
  • パオロン - シャオロンの友達とも妹ともいう。ピンク色。背番号は2000。

シャオロンとパオロンをその容姿から「カバの兄弟」と勘違いしているファンも多いが、彼らはれっきとした球団のシンボルマークである龍の子供である。

関連マスコット

  • ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。龍をモチーフにしている。宮崎駿がデザインを担当し、名前は公募でつけられた。
  • ドムラ - ナゴヤドームの公式マスコット。ゴリラをモチーフにしている。

歴代の球団歌

  • 燃えよドラゴンズ!
    • 1974年にCBCラジオの企画で作られた応援歌。中日の代表的な応援歌であり、毎年選手の入れ換えとともに歌詞が変わる希有な応援歌でもある。詳細は同項を参照。
  • 夢は1001、ドラゴンズ
    1987年星野仙一監督の就任とともに『燃えよドラゴンズ!87』とともにリリースされた中日のイメージソング。
  • ドラゴンズに乾杯!
    1991年、『燃えよドラゴンズ!91』の発売と同時にリリースされた。『燃えよドラゴンズ』『少年ドラゴンズの歌』『燃えよガッツだドラゴンズ』『ダッシュだ!!ドラゴンズ』『夢は1001、ドラゴンズ』の流れを引き継ぐイメージソング。作詞作曲は山本正之、編曲は神保正明
  • ドラゴンズの歌
    1950年発表。作詞は小島情、作曲は古関裕而、歌は伊藤久男
  • 勝利の叫び
    歌はドラゴンスターズ
  • 嵐の英雄(ヒーロー)
    歌はドラゴンスターズ。

主なキャンプ地

キーワード

年4回の屈辱

太平洋戦争勃発前年の1940年からは物資の欠乏による使用球の粗悪化が目立ち、職業野球は深刻な投高打低の時代に入った。その証拠に1940年は5回、1941年は3回もノーヒットノーランが生まれている。

このうち1941年は、打率リーグ最低の名古屋軍が、7月16日巨人戦(後楽園)では中尾輝三に、10月27日阪急戦(西宮)では森弘太郎に、それぞれノーヒットノーランを食らっている。

さらにこの年の名古屋軍は6月22日黒鷲戦(後楽園)で中河美芳石原繁三の継投、8月2日の阪急戦(西宮)で江田孝と森の継投の前に、やはりノーヒットノーランを食らっている(継投によるノーヒットノーランはこの2試合のみ)。

延長28回

1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)の試合は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言され試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。

但し3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日ポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている。(史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日ブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。

  • 当時のスコアテーブル
チーム12345678910111213141516171819202122232425262728合計
名古屋軍01100000200000000000000000004
大洋軍00000220000000000000000000004

2度も唯一を経験

中日ドラゴンズは1948年に自前の球場ナゴヤ球場(※ 1948年1975年までは中日スタヂアム)を完成させナゴヤドームに本拠地を移す前年の1996年まで本拠地として使用していたが本拠地球場がらみの災難をナゴヤ球場時代に2度経験している。1つ目は球場を火事で焼失。2つ目は球場の運営会社倒産の影響で本拠地消失の危機に陥ったことである。

前者は1951年の出来事である。初代の中日スタヂアムは木造作りだったが故にタバコの不始末によるボヤ騒ぎがしょっちゅうでセントラル・リーグ発足以降は連盟から改善命令を受けていたほどだったがその年の6月の対巨人戦の3回表頃にバックネット裏から出火。(※ やはり原因はタバコの不始末)あっという間に燃え広がり全焼してしまった。おかげでチームは残りの主催試合を静岡県や神奈川県で行う羽目に。しかしこの火災直後に鉄筋コンクリート作りで再建が開始され、翌1952年には完成して支障を来たさずに済んでいる。(なお、1959年に発生した伊勢湾台風の時も、球場が水没したため一部の主催試合の会場を変更した事例がある)

後者は1973年1974年の出来事。中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社(株)中日スタヂアムが運営していたが1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県志摩海岸で自殺していたのが発見されたことにより倒産にいたっていたことが発覚。(※ 倒産後同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件が発生したがこれは中日スタヂアム事件を参照されたい。)当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失(※ 運営会社が倒産すれば当然強制閉鎖となってしまう可能性大。)の危機を迎えてしまったが債権者の同意を得て1974年1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と地元の中継権を持つ中部日本放送東海テレビ放送東海ラジオ放送、地元名古屋市の財界の雄トヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)と中部電力が共同出資して新たな運営会社、(株)ナゴヤ球場が設立され中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営していくのである。

人工芝恐怖症

1976年後楽園球場人工芝が敷設されたが、中日はこの後楽園を大の苦手としていた。初戦の5月4日読売ジャイアンツに3-10で敗れると、そのまま7連敗。6月27日に9-9で引き分けて新生後楽園での初勝利は近いかと思われたが、その後5連敗し、結局この年は後楽園で全く勝てぬまま終わってしまった。

1977年4月2日に3-5で敗れるとそのままズルズルと負け続け、2年続けて後楽園では勝てないとファンを不安がらせたが、9月13日に6-5で勝ち(勝利投手松本幸行)、連敗を19で止めた。中日はナゴヤ球場では1976年は7勝6敗、1977年も後楽園の連敗ストップ時には4勝5敗1分けと、2年連続でリーグ優勝した読売相手に互角の勝負を演じていただけに、この連敗は大きな痛手となった。

中日の人工芝恐怖症は横浜スタジアムが開場した1978年にも再発しており、横浜での横浜大洋ホエールズ戦では4月21日の初戦から7連敗を喫している(9月9日に3-1で勝って連敗ストップ。この時点で大洋とは横浜以外ではナゴヤで12試合、静岡で1試合、川崎で1試合、札幌で2試合行っているが、中日が10勝6敗と勝ち越していた)。

初登板がノーヒットノーラン

1987年8月9日、ナゴヤ球場で開かれた巨人軍との対戦において、この年入団したばかりの近藤真一投手が初登板した。近藤は地元・愛知県の享栄高校のエース投手として活躍し、1986年のドラフト1位で入団。2軍での調整が続いたがこの日1軍公式戦に初登板。すると初完封はおろか、日本球界で史上初となる初登板ノーヒットノーランの偉業を達成した。

観客動員の発表

2005年から各球団がより透明性のある球団経営の定着を図るために、有料入場人員を実数で発表しているが、中日だけは実数に近い数値で発表するとしながらも、100人以下を切り捨てて発表している。これは中日主催ゲームのチケットが他球団の主催ゲームのように半券をもぎるスタイルではなく、チケットに入場を証明するスタンプを押す方式であるため正確な人数が把握できないためであるが、一部の球界関係者からは不公平ではないかという声もある。 さらにナゴヤドーム観客動員発表は、たとえ空席でもシーズン席分も入れているとの声もあったが、2006年オープン戦からは他球団と同様1人単位までの実数発表に切り替えた。

中日主催試合を中継する放送局

中日ドラゴンズ主催試合の放送権があるのはNHKと中京広域圏内で中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局・テレビ4局のみで非中日新聞社系列である名古屋テレビ放送(メ~テレ)・中京テレビ放送岐阜テレビ・岐阜ラジオに放送権はなく、中日ドラゴンズ主催試合を中継できない。

なお、同じ中日資本のテレビ愛知も以前はホームゲームの中継が出来なかったが、現在は年数本が放送されている。また、岐阜テレビでは過去にCBCと提携し、CBCで中継できなかったホームゲームを中継したことがあったが、現在はしていない。また岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれている。

また、浜松、福井といった中京広域圏外での主催ゲームは、地元民放の中継がない(ただし浜松市近郊では、中京広域圏内の中日新聞社系列民放の豊橋局を受信することでゲーム視聴可)。

サンデーユニフォーム

第二次星野監督時代の1998年、白地に星野の母校明治大学のイメージカラーである紫の縦縞でノースリーブのユニフォームを日曜日のナゴヤドーム限定で使用したが、安っぽいとの評価や着用した試合の勝率が余りに悪く、わずか1年で廃止された。

ちなみに中日は1968年にもノースリーブのユニフォームを使用したことがある(ホーム用は白地で左胸に赤いDの飾り文字、ビジター用はグレー地に赤でChunichi)。この年最下位に沈んだこともあり、こちらもわずか1年で廃止されている。

映画の中のドラゴンズ

野球を扱った映画は数多くあるが、中日ドラゴンズを扱った映画として、1992年に公開されたアメリカの作品『ミスター・ベースボール』(Mr.Baseballトム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)がある。ヤンキースから中日にトレードされたメジャーリーガーの活躍を描いた作品で、中日球団および地元テレビ局の全面協力の元、野球のシーンでは1992年当時の全国各地の本拠地球場で撮影、ナゴヤ球場での撮影ではのべ10万人以上もの名古屋市民がエキストラとして参加した。

日本では高倉健が内山監督役で出演したことで話題となった(ちなみにこの時に野球をあまり知らない高倉の相談役になったのが、福岡・東筑高校時代の後輩で当時近鉄監督を務めていた仰木彬である)。またチームメイト役では『メジャーリーグ』シリーズや『24』シリーズに出演しているデニス・ヘイスバートが、さらにはレオン・リー(元ロッテ)やアニマル・レスリー(元阪急)など日本でも活躍した往年のメジャーリーガーもゲスト出演している。

アメリカのフロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドの施設、ディズニー-MGMスタジオのアトラクション、「マジック・オブ・ディズニー・アニメーション」のツアーで「ドラゴン」の付く言葉として「チューニチ・ドラゴンズ」が映像と共に出てくる。

中日優勝の法則

中日ドラゴンズは2005年の開幕日現在の時点でリーグ優勝が6回、うち日本一が1回という成績を残しているが中日が優勝すると何故かその年あるいは翌年に政変が起きている。

日本一になった1954年には吉田茂内閣が通算7年2ヶ月の長期政権にピリオドを打ち、翌55年には社会党統一や保守合同による55年体制。

20年ぶり、読売のV10を阻止する歴史的なリーグ優勝を成し遂げた1974年には田中角栄内閣が金脈問題で躓き崩壊。引き分けの数の多さでリーグ優勝した1982年には鈴木内閣が総辞職し、中曽根康弘内閣が誕生。翌83年に自民が総選挙で惨敗し、自民党と新自由クラブとで55年体制以降初の連立政権が誕生。

星野仙一監督時代のリーグ優勝となった1988年と1999年は翌年政変が起きていて、前者は昭和天皇崩御で昭和という時代が終わった上に竹下登内閣が崩壊。後を受けた宇野宗佑内閣もスキャンダルで躓き崩壊と大混乱。後者は小渕恵三内閣が首相の危篤により崩壊。

2004年の落合監督によるリーグ制覇の翌年2005年、小泉純一郎内閣の「郵政解散」(郵政民営化関連法案が参議院にて否決により衆議院を解散)により、自民党は分裂選挙に突入する。しかし、この年、選挙で与党が圧勝し、内閣が総辞職することはなかった。ちなみに2004年は、球界再編の動きがあり、井沢元彦は「球界ではすでに政変が起こっている」という趣の寄稿を中日優勝記念の本に載せている。

また、1999年の優勝のその日に東海村JCO臨界事故が発生するなど、中日が優勝した年には大事件や大事故も起きていて、そのような趣旨の内容を俳優の森山周一郎がNHKの中継で発言したことにより、多くの抗議があり波紋を呼んだ。これらのジンクスにより、1988年には昭和天皇の病状に配慮してビールかけ自粛、1999年は臨界事故の報道に埋もれてしまったという実害もある。

外部リンク

プロ野球
セントラル・リーグ パシフィック・リーグ

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北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス

イースタン・リーグ ウエスタン・リーグ

北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | インボイス | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス

中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス

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