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千葉ロッテマリーンズちばロッテマリーンズChiba Lotte Marines)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は千葉マリンスタジアム千葉市美浜区)。2軍の本拠地はロッテ浦和球場さいたま市南区)。所属選手については千葉ロッテマリーンズの選手一覧を参照のこと。
千葉ロッテマリーンズ
チーム名千葉ロッテマリーンズ
加盟団体パシフィック・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍)
創設年度1950年
チーム名の遍歴毎日オリオンズ(1950年1957年
→毎日大映(大毎)オリオンズ(1958年1963年
→東京オリオンズ(1964年1968年
→ロッテオリオンズ(1969年1991年
→千葉ロッテマリーンズ(1992年~)
フランチャイズ千葉県
本拠地千葉マリンスタジアム (1軍 千葉県千葉市)、ロッテ浦和球場(2軍 さいたま市
収容人員30000人(千葉)
オーナー重光武雄(本名:辛格浩)、(代行)重光昭夫(本名:辛東彬)
親会社ロッテ
監督ボビー・バレンタイン
タイトルリーグ戦:5回、日本シリーズ:3回
インターリーグ戦:2回、アジアチャンピオン:1回
(優勝年度)(リーグ戦)1950、1960、1970、1974、2005
(日本シリーズ)1950、1974、2005
(インターリーグ戦)2005、2006
(アジア)2005

球団の歴史

「毎日」時代

「大毎・東京」時代

  • 1957年シーズンオフ、成績が低迷していた大映野球・大映ユニオンズを吸収合併し毎日大映球団・大毎オリオンズ(だいまい-)と改称。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。
  • 1950年の優勝以後、西鉄と南海に水をあけられていたが1960年に2度目の優勝を遂げる。この年監督に就任した西本幸雄のもと榎本喜八山内和弘田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾るが、日本シリーズ対大洋ホエールズでのバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた。
    なお、この年を以って毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が完全に球団経営を掌握する事になる。
  • 1962年より本拠地は永田が私財を投じて東京・南千住に建設した専用球場・東京スタジアムに移転。
  • 1966年、地域密着型のチームを目指しチーム名を東京オリオンズ(とうきょう-)に変更。マスコットに「桃太郎」を採用。
    この年のシーズンを最後に毎日新聞社からの後援が打ち切られ、経営は完全に永田側に移譲されたが、正式球団名は「毎日大映球団」を維持した。これまでのスポーツニッポンに代わり、東京スポーツが関連新聞となる。

「ロッテオリオンズ」時代

  • 1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズに改称。ただ正式な球団買収ではないので球団の経営は従来どおり毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー=言い換えれば命名権を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
  • 1970年パ・リーグ優勝。東京スタジアムでの優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。日本シリーズは読売ジャイアンツに敗れる。
  • 1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、正式球団名もチーム名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。
  • 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。
  • 結局1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くてホームランが入りやすい。ピッチャー泣かせだ。」と球場買い取りを反対し交渉は決裂。東京スタジアムは閉鎖され、本拠地球場を喪失した。
  • その為1973年(※)~1977年の間は仙台宮城球場を中心に後楽園、神宮川崎を転戦し「ジプシー・ロッテ」(後述)といわれた。
  • 1973年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却される事になった(現・北海道日本ハムファイターズ)。
  • 1974年に金田監督の下で有藤道世山崎裕之弘田澄男、投手では成田文男村田兆治木樽正明らが活躍しリーグ優勝・日本一。この時の日本シリーズ(対中日)主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフ(いずれも阪急戦)は宮城で開催された)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも仙台市内ではなく、東京・銀座で開かれた。これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
  • 1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったことに伴い、同球場を本拠地とすることを希望したが、既に移転が内定していた大洋ホエールズと折り合いがつかず破談。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからの川崎移転が決定。

(※)歴代本拠地 ※2の項参照

「千葉ロッテマリーンズ」時代

  • 1991年9月4日、フランチャイズを千葉県、本拠地球場を千葉県千葉市美浜区千葉マリンスタジアムに変更。同年11月21日に球団名を千葉ロッテマリーンズに改称した。2軍については1989年にそれまでの東京都青梅球場から埼玉県浦和市のロッテ浦和球場に移転している。1998年2軍用の新球団寮が竣工したものの当時は現在のような賑わいは全くなく、千葉県民の目も冷ややかだった。
  • 千葉移転後1994年頃まではパ・リーグでも観客動員数は最低レベルであり、オーナー代行が当時のリーグ会長から「もっと努力してほしい」と特に注意を受けている。
  • 1995年のシーズンは10年振りのAクラス入りを果たす貯金10の2位で終了。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、当時監督であったボビー・バレンタイン広岡達朗GMとの確執から解任される。
  • バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも5位に沈み、広岡・江尻ともにこの年限りで辞任。
  • 1998年にはプロ野球記録となる18連敗を喫し話題となる。この記録は大東京軍(現在の横浜ベイスターズの前身)が1936年に記録して以来62年間破られていなかった。当時の監督は近藤昭仁で、1998年シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言し、物議をかもした。
  • その後山本功児1999年に2軍監督から昇格、現在の投手王国の形成、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。しかし、この山本功児が監督のころにドラフトで獲得した渡辺俊介今江敏晃西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入りに大きく貢献している。
  • 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年のキャンプ中に家庭事情等により退団というアクシデントにも見舞われる。

第2期バレンタイン監督時代

  • 2004年、バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着に白いパンツ)を採用。プレーオフ進出を後一歩のところで逃すも勝率5割を記録した。
  • 2005年は開幕から前年に引き続き今江敏晃西岡剛が台頭し、好スタートをきる(なお、李承燁はオープン戦での不振〔20打数1安打、打率.050〕と外国人登録枠の関係上、2軍で開幕を迎えている)。彼らのヒットとタイムリー、盗塁で得点を稼ぐ野球を通称「マリンガン打線」と呼ばれた。この年から導入されたセ・パ交流戦(インターリーグ)では初代チャンピオンとなる。この年の交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バスのラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic(奇跡無用)! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。また8月17日西武ライオンズ戦に勝ち10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス・バファローズ戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスが確定した。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。10月26日からの日本シリーズでは阪神タイガースを4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。この優勝によって「優勝から最も遠ざかっていたチーム」の代名詞(汚名)を返上することに成功した。
  • 11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズに出場。初戦で李の古巣である三星ライオンズ(韓国代表)を6-2で下すと翌日は興農ブルズ(台湾代表)に12-1の7回コールド勝ちを収め、ロッテOBのジム・ラフィーバー率いる中国棒球協会選抜チーム(通称チャイナスターズ、中国代表)との対戦を待たずに決勝進出を決めた。チャイナスターズ戦は3-1で勝利し、決勝では三星を5-3で下して勝利、1・2軍合計で年間6冠の完全優勝を達成した。また11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。
  • 2006年はボビー野球の主力だった小坂誠と李が読売ジャイアンツ(巨人)へ、ダン・セラフィニがオリックスへ移籍した。また新たにオリックスからケビン・バーントライアウト瑞季を獲得した。また開幕直前に開催された2006 ワールド・ベースボール・クラシックに8人の選手を送り込んだこともあり開幕後は調子が出ず、5月7日時点で18勝17敗ながら5位と低迷していた。
  • 交流戦に入ってからも阪神戦で連敗スタートとなるなど不安を感じさせたが、5月12日から広島東洋カープ、横浜、中日ドラゴンズに3タテを食らわせて9連勝と、突如前年の勢いを取り戻したかのような戦いを見せつける。5月23日の阪神戦で連勝はストップしたが5月25日から5連勝と再加速。6月に入ってからは3連戦での負け越しも見られるようになったが、6月19日東京ヤクルトスワローズ東北楽天ゴールデンイーグルスに2-4で敗れたため、交流戦2連覇が確定。翌6月20日の最終戦(阪神戦)には0-2で敗れたが、ヤクルトも北海道日本ハムファイターズに2-4で敗れたため、2年連続して最終戦で交流戦での単独優勝を決定した。ちなみに巨人戦には滅法強く、2005年は5勝1敗、2006年は6戦全勝(この年唯一片方のチームが全勝したカード)と圧倒している。

チーム成績・記録

  • リーグ優勝 5回

(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)※

  • 日本一 3回

(1950年、1974年、2005年)

  • アジアチャンピオン 1回

(2005年)

  • インターリーグチャンピオン 2回

(2005年、2006年)

  • Aクラス 23回

(1950年~1952年、1954年~1957年、1959年~1960年、1968年~1971年、1973年~1974年、1976年~1977年、1980年~1981年、1984年~1985年、1995年、2005年)

  • Bクラス 33回

(1953年、1958年、1961年~1967年、1972年、1975年、1978年~1979年、1982年~1983年、1986年~1994年、1996年~2004年)

  • 最多勝 85勝(1955年)
  • 最多敗 85敗(1963年)
  • 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
  • 最高勝率 .704(1950年)
  • 最低勝率 .361(1983年)

※、1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝。2005年はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで西武、ソフトバンクと連破して優勝。

その他の記録

  • 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
  • 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
  • 最多本塁打 193本(1971年)
  • 最小本塁打 56本(1953年)
  • 最高打率 .287(1985年)
  • 最低打率 .232(1965年)
  • 最高防御率 2.40(1956年)
  • 最低防御率 5.12(1983年)
  • 最多連勝 18(1960年)
  • 最多連敗 18(1998年)

チームの特徴

  • 以前のニックネーム「オリオンズ」は星座オリオン座が由来。球団創設以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星は毎日新聞社の社章に因んでいることからつけられた。
  • 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。
  • 1992年から採用している「マリーンズ」は、球場が沿いにあることから海の英語表現に由来する。コラムニスト・綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。なお、公式サイト上の試合速報では、海兵隊の文字が散見される。オリオンズ・マリーンズともにロッテ本業との関連は無い。
  • チームの生え抜き選手が監督に昇格する巨人や阪神、広島などと比べ外様監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は西本幸雄・戸倉勝城・山内一弘有藤道世八木沢荘六の5人しかいない。
  • 球団マスコットカモメがモチーフ。マーくん(5歳)、リーンちゃん(4歳・マーくんの彼女)、ズーくん(3歳・マーくんの弟)の3人。いずれも背番号なし。マーはユニフォーム姿、リーンはポニーテールでピンクのサンバイザーに白のトレーナー若しくはピンク系のスタジャン・白またはピンクのプリーツミニスカ姿、ズーは前後逆に被った黒のキャップに灰色のTシャツとジーパン姿。
  • 2005年8月3日イワトビペンギンをモチーフにビン底メガネをした謎の新マスコットが突然デビュー。8月24日にこのマスコットの名前が「クール」と正式発表された(ペンギンであることからロッテのガム「クールミント」が名前の由来と思われる。前述のマスコットと同様、背番号なし)。クールは「1992年にマリーンズの前身ロッテオリオンズのマスコットになるべく川崎球場にやってきたものの、当時すでにチームは千葉に移転しており、その夢は叶わなかった(通常背中に「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたオリオンズ時代のユニフォームを着用しているのはそのため)。そのことを知るべくもない彼はチームを探して日本や世界中をあちこち探し回っていたが、14年目の2005年にようやくロッテオリオンズが千葉ロッテマリーンズと名前を変えていることを知り、千葉へ行った。しかしチームには前述のカモメをモチーフとしたマスコットがいるため、彼はビジターチームのファンを盛り上げることでスタジアム全体を盛り上げる役目を担うことになった」という設定。試合中は相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、ビジターファンからは今一つ受け入れられなかったようで登場からわずか1ヶ月でテコ入れ。メガネからサングラスに変更し、悪のマスコットとして正マスコットの座を奪い取ろうとするポジションに落ち着いた。
  • 旧球団歌は「わがオリオンズ(毎日球団の歌)」。これはマリーンズに名称が変更されるまで、オリオンズの歌であった。また最近になってオリオンズ時代の球団旗をモノトーン調にし、ロゴを「LOTTE Marines」にしたユニークな応援旗も確認されている。
  • ホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「Take Me Out to the Ball Game」が演奏されていた。現在は主に公式応援歌である「We love Marines」が演奏される。
  • 2005年東北楽天ゴールデンイーグルスが「10人目のスタメン」として、背番号10をファンのための欠番にしたのが話題となったが、それに先駆け、マリーンズではファンを「ベンチ入り25人に次ぐ26人目の選手」として、背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれにならってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる以前から行っている。
  • 同県にある東京ディズニーリゾートへの対抗の影響からか、ファンを獲得する手段において様々なアイディアを実現している。千葉市との交渉により、公式戦開催時に千葉マリンスタジアム周辺での縁日や各種パフォーマンス実演を実現したのもその一例。スタジアム最寄駅の京葉線海浜幕張駅の発車ベルも2005年3月26日からWe love Marinesの発車メロディに変更された。これらの急激な変化は2004年に勃発したプロ野球再編問題による副産物といえる。再編問題でマリーンズが千葉から出て行く可能性がささやかれるまでわざわざ誘致したはずの千葉市の対応は極めて冷たく各種企画を立案しても条例を盾に悉く県や市側から却下されていた。それが手のひらを返す様に瞬く間に条例を改正したりして許可を出すようになったことが大きく影響している。
  • 公式戦においては「巨大ビアガーデン構想」を、2005年6月28日からの対福岡ソフトバンクホークス2連戦で「360度ビアスタジアム」として実現した。球場が全席自由の一律1500円で、試合途中での座席変更も可能。また、通常600円の生ビールが半額で提供された。この構想が実現した理由としては、もともとこのカードは韓国で行われる予定だったものの現地での野球人気の低迷などの理由により中止となったため、従来あるはずの招待席がこの時に限ってなかったという裏事情がある。
  • 2003年より元福岡ダイエーホークス球団代表・瀬戸山隆三が球団代表に就任すると、積極的なファンサービスに尽力するようになる。特に千葉マリンスタジアムの球場内は千葉市、駐車場などの球場外の敷地は千葉県の管理となっている為、当時は売店の設置やフェンスの企業広告が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態であった。これを改善し、売店、屋台の設置、フェンスの広告や、球場周辺で動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム施設にベビーベッドを設けたりするなどしており、セ・パ交流戦の際これを見た阪神タイガース前オーナー・久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。現在のマリーンズに貢献したのは瀬戸山を中心としたフロントの努力も大きく、12球団の中でファンサービスが1番良いのはマリーンズという人も多い。
  • 始球式を行う著名人は、以前は親会社のCMに出演しているタレントが多かったが、千葉に移ってからは地元ラジオ局、bayfmのパーソナリティも行うようになった。
  • 選手の補強には比較的消極的ではあるが、球団は生え抜き球団をかなり意識しているためであり、スカウトの行動範囲が広く、中学野球に足を運びスカウト活動をすることもある。
  • 交流戦は2005年2006年と2年連続優勝。千葉マリンスタジアムの特徴になれていない等の原因が重なり、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっている。

ユニフォームの変遷

  • 1950年1957年 ホーム用はヤンキース、ビジター用はドジャースをベースとしていた。トリコロールのワッペンは廃止された時期があったがおおむね継続した。なお、1956年からビジター用をヤンキーススタイルに変更。
  • 1958年1965年 球団名が大毎オリオンズとなり、ロゴも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、球団名が東京オリオンズになったのを機に「TOKYO」に変更される。この間、腰番号や胸番号がつく。
  • 1966年 赤を多用したホーム用ユニフォームが登場。ペットマークにバットを持った桃太郎が後半から登場。
  • 1967年1968年 ホーム用がドジャーススタイルとなり、縦縞が廃止。当初ラインがあったが後にラインが廃止され、ドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。
  • 1969年1972年 ロッテがスポンサーとなり、ロッテオリオンズに改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲。ホーム用もビジター用も「LOTTE」で統一される。
  • 1973年1991年 川崎時代のユニフォーム。ニット素材の特徴を生かしパンツからボディにかけて側線に入れるアイデアが取り入れられた。川崎時代最後の1991年まで使用。
  • 1992年1994年 球団が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルーは千葉県のイメージが強い。帽子マークはCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波線が入ったもの。
  • 1995年2004年 広岡達朗GMの提案によりチームカラーを白と黒と銀に変更。同時に毎日時代から東京時代まで使われていた縦縞が復活。
    • この時期のユニフォーム変更の経緯については後述
  • 2005年~ バレンタイン監督の提案で縦縞のユニフォームに加え、前年のサンデーユニフォームをマイナーチェンジしたダンダラ帯のはいったユニフォームが登場(ファンの間では「法被」と呼ばれる)。どのユニフォームを着用するかは先発投手が決定する。
    • ちなみに法被と白パンツの組み合わせは「(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせは「(さむらい)」、縦縞は「(いくさ)」と呼ばれている。2005年に公式戦で「侍」が着用されたのは1回だけ。5月14日の対ヤクルト戦で、先発のダン・セラフィニがこのユニフォームを選択。しかしその試合で3-11と大敗。その後縁起が悪いと敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。そもそもこの「侍」に関しては、縁起を考えなくても選手から「格好が悪い」と評判が良くなかった。そのご、2005年後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため縁起担ぎでこぞって「」を使用。「」は殆ど使われなかった。

先祖帰りのユニフォーム

  • 「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮黒潮のぶつかり合い」と定義づけられ、球団の千葉に根付いていこうとする意気込みが感じられた。
  • ところが1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に出来たのが2005年に「戦」と名付けられた、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォーム。
  • 黒と紺の違いや“M”の書体の違いこそあったものの「縦縞」「左胸に“M”」が毎日オリオンズ時代のユニフォームと共通していたため年配のファンからは「ユニフォームが先祖帰りを果たした」、また若いファンからは「大リーグシカゴ・ホワイトソックスみたいで格好いい」と、幅広い年代層に受け入れられるユニフォームとなった。
  • 現在、チームのカラーは「白、黒、赤」とされ、「誠」ユニフォームは白地に黒と赤の模様、ビジターユニフォームは黒字に赤ラインが入ったものである。また、赤味が強く濃い色合いのピンクが2005年より「誠」「侍」着用時に使用の帽子のつばの模様に取り入れられた。

特徴的なファンによる応援パフォーマンス

ライト側外野席に陣取る熱狂的マリーンズファンたちの統率が取れたメリハリある応援パフォーマンスは、しばしばマスコミでも取り上げられる特徴的なものである。中でもライトスタンドのほぼ全てを覆い隠せるほどに大きな「26 MARINES IS MY LIFE」の横断幕(ビッグフラッグ)は千葉マリンスタジアムの名物となっていた。

  • 彼らの応援スタイルは、ゲート横に陣取る応援グループ『Marines Victory Productions』と親交の深い『ウルトラズ』のメンバーやFC東京アビスパ福岡浦和レッドダイヤモンズサポーターの影響を強く受けていると言われ、試合開始の際にマフラー状のタオルを両手に広げ合唱することに始まり、従来応援に使われてきたメガホンを用いず(応援バットやメガホンは売店で売られてはいるにも拘らず)手拍子と指笛を主体とした声による後押しと、攻撃時のヒッティングマーチにおいて野球応援では広く使われているトランペットの他、寸胴型のドラムやバルサホーンなどの鳴り物を使用したり、メッセージ性の強い両手持ちの旗「ゲートフラッグ」の掲揚、チャンス時や得点時に「マーチ旗」と呼ばれる小旗を打ち振り、アルゼンチンサッカーのサポーターが使うような大きいパラソルやジャンプをする際にはタスキ状の長い布「バンデーラ」も使用しているようである。これらのことに加え、『bombonera』のような本来はサッカーのサポーターへ向けたファッションブランドからも、例外的にマリーンズファンへ向けたファッションアイテムが出回っているという側面から、彼らの応援スタイルはサッカーからの影響を色濃く反映していることは明らかであり、スタンドの空気は千葉マリンスタジアムの構造的特徴も相まってさながらヨーロッパや南米の強豪クラブチームが本拠を置くサッカースタジアムのようですらある。
  • サッカーの影響を受けていることだけではなく、野球や選手に対する真剣な態度やマナーのよさからテレビなどでは「マリーンズサポーター」と呼ばれることもある(敵チームである宮本慎也らに対して「大丈夫ですか?」と声をかけたり、体を張ったプレーを見せた平野恵一に拍手したりした事もある)。しかし「野球を見るものなら“ファン”と名乗れ」「略称の『マリサポ』が横浜F・マリノスのサポーターと紛らわしい」などサッカーファン、他球団ファンからの批判も多い。なお、ファンの中にはサッカーのサポーターも多いことから後者の理由はファン内でも周知されていると思われるが、当然ファンの中でもその事は知らず自ら「マリーンズサポーター」と名乗る者もいるし、何より「千葉ロッテマリーンズのファン」を示す言葉としてあまりに広く定着し、一般名詞化していることから、深く突き詰めないようにしているのが現状である。ただ一部常連ファンからはにわかファンに対する蔑称として「マリサポ」を用いる事が多い。
  • マナーが良いといわれる一方で、相手ピッチャーが執拗に牽制球を多投する場合にはかまわずブーイングをするのが常になっている(選手への応援歌を歌っている時を除く。あまりに執拗な場合は「ピッチャービビってる!」や「You are chicken!」のフレーズを連呼する場合もある)。これに対しては他チームのファンから「牽制球を投げるのはピッチャーとして当然のプレー」「もし牽制球でランナーがアウトになったらどうするんだ」といった批判がある(他チームのファンの一部も野次を飛ばすが全体の応援としてはブーイングを行わない)。これには、マリーンズファンの一部からブーイングをするのはどうかといった声もあるものの、外野スタンドの応援は最早、収拾がつかない状態である。
  • 応援団は公式にサッカーやアメリカンスポーツなどを参考にしたことを認めている。
  • この応援スタイルは読売ジャイアンツなど他球団の応援スタイルにも影響を与えており、特にレプリカユニフォームを着ての観戦はプロ野球においてもすっかり定着したと言えるだろう。マリーンズファンの多くはホーム用2種類及びビジター用の計3着のレプリカを所持して当日の選手と同じものを身につけており、外野席は常にホームなら白、ビジターは黒一色となっている(レプリカユニフォームはファンクラブ有料会員の入会特典でもあり、種類は選択可能である)。
  • また、試合後のスタンドで身の回りの清掃を行うなど「12球団の応援団で最もマナーがいい」と言われてきたが、ゴミのリサイクル問題で分別収集がスタジアム運営側にも求められるようになり、必ずしも観戦するファン自らが「適当にまとめて大きなゴミ箱に運べばよい」と言う話ではなくなってきたため「ファン自らがスタンド清掃をすることが良い」と言う価値観も変わりつつある。近年では一部の熱狂的なファンによる過熱・暴走―フーリガン化への懸念や、チームの調子が上向いてきた事によるいわゆる「にわかファン」の大量流入に端を発した千葉マリンスタジアムライトスタンドの「席取り」問題などが発生、球団の対応の遅れも手伝い、マイナー球団ゆえこれまで見えてこなかった問題が表面化してきたのも事実である。
  • マリーンズファンの代名詞ともなっているタオル回しは「白いタオルとボールが重なってロッテ選手の打撃の妨害になる」「巨人応援団も流用している」などの理由からインプレー中は行われていないが、未だにチャンステーマ時に回すものと誤解している人が多いため、チャンステーマの代わりにジャンプをする様になった。
  • 近鉄の名物応援「タオル回り」(後にオリックスに引き継がれる)は「タオル回しはカッコイイが、これをそのままやるとパクリになるから」という理由で始まった。
  • 東尾修は西武監督時代にマリーンズファンを「ライトスタンドの白いオバケ」と評した。また、2005年のプレーオフ、日本シリーズは全てビジターでの優勝だったのでマスコミは彼らを「黒の軍団」と評した。
  • なお、東京オリオンズ時代は「東京音頭」を歌った応援スタイルで、東京スタジアム閉鎖後はヤクルトの応援団にスタイルが継承された。

マリーンズ応援団・ファンが受けた表彰

  • 2003年 毎日スポーツ人文化賞(毎日新聞社)-この賞金でビッグフラッグを作成。
  • 2005年 特別感謝状(千葉市)-市から記念プレートの形で特別感謝状が贈られた。ライトスタンド入り口に掲げられる事になっている。

歴代本拠地

  • 1950年~1962年 - 後楽園球場 ※1
  • 1962年~1972年 - 東京スタジアム ※1
  • 1973年~1977年 - 仙台宮城球場 ※2
  • 1978年~1991年 - 川崎球場
  • 1992年~ - 千葉マリンスタジアム

※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。1973年度は地域保護権東京都のままだったことから正式には「準本拠地」扱いだったのを1974年、正式に宮城県に地域保護権を移転させた。但し球団事務所は従来と同じく東京に置いていた。

歴代監督

※太字は優勝達成監督

※1 ここから大毎オリオンズ
※2 ここから東京オリオンズ
※3 ここからロッテオリオンズ
※4 1975年は4月22日まで指揮、5月6日から復帰
※5 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまでは徳武定之が代行
※6 ここから千葉ロッテマリーンズ
※7 1994年は7月31日まで指揮、残り試合は中西太が代行

永久欠番

  • 無し。

準永久欠番

#8 有藤道世(1987年~1991年)元は永久欠番だが、千葉移転後永久欠番でなくなる。現在は今江がつけている。

#26 マリーンズ・ファン

  • 千葉ロッテマリーンズは2005年度以降、背番号26を東北楽天ゴールデンイーグルスの10番同様にファンのための欠番(1試合に出場登録できる、すなわちベンチ入りする25人の選手に次ぐ26人目選手の意味)としている(一軍には28人(うち3人〔ほとんどの場合登板予定のない投手〕はオフになる)、日本シリーズ中は40人の登録が可能)。ちなみに最後に26を着用した選手は酒井泰志(2003年~2004年)。
  • 試合中はダッグアウトの壁に背番号26のユニフォームがハンガーで掛けられており試合に勝った時にはヒーローインタビューを受けた選手がファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(ユニフォームはマーくんが掲げることもあり、2006年カルビープロ野球チップスカードでは、26番のユニフォームを掲げたマーくんの写真がチェックリストに使われている)。
  • 2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、TEAM26と命名される。
  • 退団後殺人事件を起こした小川博の現役当時の背番号が26だった為、封印の意味もある。

歴代の球団歌

  • わがオリオンズ(毎日球団の歌)
  • ビバ!オリオンズ!
  • WE LOVE MARINES

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幻の信任投票

西本幸雄阪急監督時代の1966年に信任投票を行ったのはあまりにも有名だが、実は大毎監督だった1960年にも似たような事件が起こっている。
当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、ある日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。
それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内和弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから事態は収拾、結局信任投票は行われなかった。
西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。

ロンゲストゲーム

1969年10月10日大阪・日生球場での近鉄戦のダブルヘッダー第2試合は当時の最長試合時間となる5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)のロンゲストゲームとなった。5時間超えは当時の日本プロ野球初の出来事でもあった。
更にこれは参考記録ではあるが1981年度のプレーオフ、川崎球場での日本ハムとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分の大熱戦を展開したが、やはり4-4のドローに終わった。

ジプシー・ロッテ

1973年1977年、東京スタジアムの閉鎖によって、東京都内にホームゲームを常時開催するスタジアムを失ったオリオンズは事実上の本拠地として仙台市県営宮城球場(現・フルキャストスタジアム宮城)に置いていたが、あくまでもメインの本拠地(球団事務所)は東京都にあること、また東京近郊に新しいホームスタジアムが出来るまでの暫定処置であることなどから、選手たちは東京近郊での試合の時は自宅や合宿所から直接通ったが、仙台での試合の時は遠征試合同様仙台市近郊のホテルに宿を取って試合に臨んだ。
特に1973年度は同年度も東京都内に本拠地を置くことを前提に試合のスケジュールを決めたが、本拠となる球場が定まらず、試合の半数の日程を後楽園神宮川崎の各球場の空き日程に埋めてもらったが、それでも半数以上は会場未定となったまま。
そこで宮城球場での公式戦開催を念頭に設立された東北野球企業がロッテ球団に年25試合の公式戦ホームゲームの開催を提案し、それを受け入れた形となったが、本拠地移転を公式に実施する場合はプロ野球実行委員会(同委員会での4分の3以上の賛成票を得ること)やオーナー会議の承認を前年11月30日までに得ることが条件となるため、この年は本拠地は東京都のままながら実際のホームは宮城という変則的なものとなった(1973年のシーズン後、宮城県への本拠地移転が認められた)。
その為、ある月には阪神タイガースの「死のロード」以上に(東京-ロサンゼルスを飛行機で往復する距離に匹敵する)移動の連続で、1ヶ月近くも自宅や合宿所を留守にしてしまうこともまれにあった。その為、金田正一監督はシーズン中にもかかわらず選手に完全休養を取る事を命じ(練習なし、自主トレも禁止)、家族サービスに努めるよう指導したこともあった。
1974年1977年プレーオフ阪急戦は仙台で開かれたが、1974年のリーグ優勝後に開かれた日本シリーズ・中日戦は球場の施設やキャパシティーの問題上後楽園で開かれ、その後の優勝パレードも東京都・銀座で開かれ(優勝パレードは西新宿のロッテ本社から靖国通りを経由し銀座に至ったという稀に見るロングランパレードとなった)、仙台市民から「ホームタウンを無視した」と批判を浴びる羽目となり、その後ファンの激減にもつながったのではないかとされている(なお1977年にも日本シリーズに進出した場合、日本シリーズでのロッテ主催ゲームは後楽園で行うことが内定していた)。
その後も県営宮城球場では年間10試合前後の公式戦を準本拠地として開催していたが、施設の老朽化が激しくなったことから、試合数も大幅に激減し、2005年に同スタジアム(フルキャスト宮城)を使用する東北楽天ゴールデンイーグルスの加盟に伴い、ロッテの主催試合は撤退となった。
:この期間中の主催ゲームの割り振り(プレーオフ、日本シリーズは除く)
:*1973年 仙台26試合、後楽園7試合、神宮10試合、川崎18試合、静岡草薙2試合、西京極2試合
:*1974年 仙台27試合、後楽園11試合、神宮4試合、川崎9試合、静岡草薙14試合
:*1975年 仙台33試合、後楽園12試合、神宮6試合、川崎14試合
:*1976年 仙台33試合、後楽園12試合、神宮8試合、川崎12試合
:*1977年 仙台38試合、後楽園12試合、神宮12試合、川崎3試合
余談ではあるが、当時の人気漫画「アストロ球団」では、アストロ球場をかけて、アストロ球団と戦った事がある。

幻の合併計画

このジプシー時代元年だった1973年、その年始に経営難により東映から球団経営権を譲渡された日拓ホームフライヤーズ西村昭孝オーナーはそのシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」として1リーグ制移行を視野としたロッテとの球団合併の計画を持っていた。
ロッテも常時都内で試合開催が可能なスタジアムで公式戦の開催をしたいという意向もあったため、合併は時間の問題ではないかとされたが、調印寸前でこの計画は破談することになり、日拓の日本ハムへの身売りへと向うことになっていく。これが元ネタなのかわからないが、テレビゲームプロ野球ファミリースタジアムのフーズフーズと言うチームはロッテと日ハム(日拓)の合併チームであり、「もし、合併が実現していたらオーダーはこうなっていたのではないか」と当時を偲ばせる。
また、2004年にはプロ野球再編問題のなかで福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。
結局この合併計画は破談して、ホークスはソフトバンクに売却されたが、歴史ある球団が消滅する可能性があった(ロッテはパ・リーグの現存球団のなかでは最も古くから経営権を持っている)。
その他、2004年は西武ライオンズとの合併話もあったが、こちらも西武が単独球団保有を示したことで破談となっている。

ライオンズとの遺恨

先述した1952年平和台事件の他にもライオンズとは何かと遺恨を残している。1973年1974年にかけて(当時はロッテが事実上仙台を本拠とし、ライオンズは太平洋クラブとして出場した)の両チームの対戦の時には金田正一監督がロッテのホームゲームでの大勝に怒った太平洋クラブのファンに対して暴言を言ったり、また互いの選手が危険球(デッドボール)の被害を受けてしまうとそれを火種に両軍入り乱れての乱闘騒ぎとなってしまい、挙句の果ては1974年5月の試合で太平洋クラブのファンがロッテの選手を取り囲み怒りの抗議を行い、試合後機動隊の護衛を受けて移動する羽目になった(輸送車を使用した)。
また当時太平洋クラブの試合ポスターでロッテの金田監督と太平洋クラブのドン・ビュフォードの乱闘シーンをポスターに描いたことが「遺恨試合に拍車をかけてしまう」という理由で福岡県警から注意を受けたこともあったという。実際は、観客動員のために両者が出来レースで行ったのが発端だが、当事者の思惑を超えて騒ぎが大きくなってしまったのだという。

ライオンズの経営権が太平洋クラブから西武鉄道グループコクドに移って約20年経った1998年10月12日には西武・松井稼頭央とロッテ・小坂誠が盗塁王争いをしていた。盗塁数が1つ多かった小坂が塁にでたとき、西武投手の芝崎和広が一塁牽制を悪送球。二塁に進むと盗塁しづらくなるため小坂は一塁にとどまったが、芝崎がなんとボークを犯したため、小坂は二塁に進まざるを得なくなった。その後ショートの松井稼頭央が二塁上に立つなどの厳しいマークで小坂は三盗を失敗。その後盗塁を成功させた松井とタイトルを分け合った。しかし、故意のボーク疑惑として新聞などで報道され大きな社会問題となった。

2000年6月下旬、当時ロッテの守護神だったブライアン・ウォーレンに、西武の東尾修監督などから「不正投球の疑いあり」との報告が審判団に度々行われ、両球団に緊張が走っていた。この緊張状態の中、29日の西武戦(千葉マリン)に登板したウォーレンに対し、審判団が通常では考えられないほど慎重なボールチェックを実施し、ウォーレンを苛立たせる。9回にはクロスプレーをめぐって、西武の小関竜也ともみ合いになるなど、一触即発の状態となった。そして試合終了直後、勝利の興奮からかウォーレンが西武ベンチに向かって中指を立てる挑発ポーズを取り、また宿舎へ引き上げる西武選手団のバスをロッテファンが取り囲むなど、太平洋クラブ時代の遺恨再燃かとも思わせるほどの騒然とした空気が球場内外を覆っていた。なお問題となった中指ポーズに関しては、後日ウォーレンが西武球団に謝罪している。

以上のことが原因かどうかは定かではないが西武ドームでの西武ライオンズ主催試合では、ベンチシートなどの座席が無いレフトスタンド(ドーム化以降は人工芝)にビジター用の黒いレプリカユニフォームや黒系の服装をした熱狂的なマリーンズファンが、自チームの攻撃の際にさながら「黒山の人だかり」のように応援する「密集応援」という威圧感たっぷりの応援スタイルや、非常に強いライバル視の表れか「西武には負けられない」という西武ドーム限定の応援歌も存在している。

2005年10月8日のプレーオフ第1ステージの西武戦では客席の占有をめぐってトラブルがあった。31年ぶりの優勝に向けて意気込むロッテサイドに対し、負け越してロッテに18.5ゲームはなされた西武サイドは冷め気味でビジター側となるレフトスタンドは空席が多数目立った。
レフトスタンド以外は立ち見客で溢れ球場外にも球場に入れない人でごった返していたためロッテファンがレフトスタンドに入ろうとしたが、西武応援団が必要以上に座席を占拠したため、レフトスタンドはロッテファンが陣取ったセンター寄り以外空席が目立ったままであった。このためロッテファンばかりか西武ファンも球場に入れなかった人が多数いる。斉藤一美文化放送アナウンサー)、大塚光二(野球解説者、西武OB)も「席が空いているならそこに座ったほうが絶対いい」という趣旨の発言をしている。
実際、試合中にも球場の管理者が西武の応援団に席を詰めてもらうように要請したもののそれを受け入れなかったため、溢れた観客は3塁側の内野席などに移動してもらった。その後西武の応援団の関係者との話し合いで、決められたスペース以上は占有しないように約束し、あくる第2試合(10月9日)ではトラブルが起きなかった。

ちなみに、ロッテ(1971年1972年)、ライオンズ(1973年-1978年)の両球団とも、中村長芳オーナーとして経営に携わっていた。

川崎球場時代のエピソード

1978年から1991年までの14年間に渡って本拠地として使われた川崎球場でも数々の名勝負を繰り広げてきたが、かつて同球場を本拠としていた大洋ホエールズの時代に比べると観客動員の入りが悪く、満員御礼となることはめったになかった。
それを象徴するエピソードとして、阪急ブレーブスブーマー・ウェルズが、この球場で練習をした後で「ところで本番の試合はどこでするんだろう」と疑問に感じたが、その後球場に観客が入ってきたので驚いたといわれている。当のブーマーは川崎球場の客の入りがアメリカのマイナーリーグ並みしか入らなかったことから、マイナー相当の「日本の2軍の球場」と思い込んでいたのではないかといわれる。
あまりの閑散振りから、ファンは、スタンドの段差を使って流しそうめんを始めたり、柔道の練習をしたり、卓を囲って麻雀をしたり、ガラガラのスタンドでキャッチボールをしたり、ホームランが出ればもってきた打ち上げ花火をつけたり、一試合で3本ホームランが出た試合では選手が投げ込むマスコット人形をキャッチしたお客は三回とも同じ人であったり、テレビの「珍プレー好プレー」番組で試合そっちのけでいちゃつくカップルの光景が映し出されたりして「テレビじゃ見れない川崎劇場」が生まれるきっかけとなった。ちなみに東京ドームで行われた2005年7月4日の対北海道日本ハムファイターズ戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスがあり、場内が笑いにつつまれた。他にも映画の撮影で刑務所のトイレのシーンの撮影を、この球場のトイレを使って行われた事がある。

韓国遠征計画

2005年6月、ロッテ主催で日本プロ野球史上二度目の韓国遠征を福岡ソフトバンクホークスを帯同して釜山ソウルで各1試合を開催する予定であった。しかし、首都のソウルでの試合が、予定されていた蚕室(チャムシル)野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズ斗山ベアーズのWフランチャイズ球場のため、全く空き日が無い)、代替としてソウルの衛星都市である仁川での開催を予定されていたが、集客力の問題と韓国でのプロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念されることになった(この2試合は本拠の千葉マリンに会場を代えて開催するが招待分が無いため、かねてから計画されていた巨大ビアガーデン構想「360度ビアスタジアム」が実現した)。この「360度ビアスタジアム」企画は翌年の2006年シーズンにも引き継がれ、6月27日北海道日本ハムファイターズ戦において開催された。

1試合最多得点完封勝利試合

2005年3月27日、地元・千葉で開かれた東北楽天ゴールデンイーグルスとの開幕第2戦において、26-0の1試合最多得点完封勝利記録のタイ記録を達成した。これは戦後初期、1946年7月15日に近畿グレートリングゴールドスターを相手に達成した試合に並んだもので、球団の1試合最多得点記録でもある(従前の球団最多得点は毎日時代の1950年5月31日東急フライヤーズ戦における23点)。

楽天000000000=0
ロッテ211101407x=26

秋のロッテとストライキの悲劇

ペナントレース後半戦になると、ロッテが好成績を収める傾向にあり、マリーンズファンの間でも「秋のロッテ」「帳尻合わせの秋」と呼ばれて揶揄され、シーズン終了直前に順位が入れ替わると言うこともしばしばある(このころになると消化試合も多くなるのでスタメンに1軍での出番が多くなかった選手が出場するのが原因と思われる)。例えばBクラスに沈み、かつ勝率も5割に満たなかった1996年から2003年を見ると、9月以降の成績は以下の表のようになる。

年度試合勝利敗戦引分秋季勝率通年勝率
1996年2511131.458.472
1997年3011190.367.429
1998年3219112.633.462
1999年3315171.469.474
2000年2614102.583.481
2001年269170.346.464
2002年3322110.667.482
2003年312281.733.496

後述のように相手の優勝がかかった試合で異常に強いことが原因で「秋のロッテは強い」というイメージが定着しているが、実際は意外にも勝ち越した年度は半分しかないことが分かる。ただ勝ち越した時の勝率は通年勝率と比べて異様なまでに高く、これが「秋のロッテ」を強烈に印象づけているのだろう。
2004年も8月末まで5割で乗り越えて勝負の9月を迎えたが、プロ野球再編問題によるスト決行分の2試合を行うか行わないかで問題になった。中止になった2試合はマリーンズがオリックス戦、3位争いのライバルだった日本ハム近鉄戦で、この試合の開催あるいは勝敗によってマリーンズにもプレーオフ進出の可能性が残されていたのである。しかし結論として行わないということで決着し、3位の日本ハムが最終戦を勝利したことによって、0.5ゲーム差でマリーンズのプレーオフ進出はならなかった。一般的には2005年のプレーオフ進出はこの悔しさをバネにしたと言われている(前回1974年の優勝メンバーである有藤道世も「週刊ベースボール」2005年10月31日号の中で、ロッテ優勝の理由の1つにこの点を挙げている)。

プロ野球再編問題によって実現した本拠地開幕戦

2005年のロッテは開幕戦を本拠地の千葉マリンスタジアムで迎えることができたが、これはプロ野球再編問題の影響である。本拠地開幕権は前々年のAクラスチームにあり、2005年は2003年の順位を元に福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)西武ライオンズ大阪近鉄バファローズに開幕権があった。この年4位だったロッテには開幕権がなかったため、本来ならば2005年の開幕戦は福岡Yahoo!JAPANドームでのソフトバンク戦であった。
しかし近鉄がオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅したことで、近鉄が持っていた2005年の開幕権が問題となった。オリックスを3位扱いするかロッテを繰り上げるかが問題となったが「合併球団の権利はドラフトなどの順位を考えるとオリックス扱いにしないと整合性が出ない」ということになり、合併球団(オリックス・バファローズ)は5位、新規参入球団(東北楽天ゴールデンイーグルス)は6位とみなされ、近鉄が持っていた2005年度の開幕権はロッテに譲渡された。そのため、ロッテの2005年の開幕戦は本拠地での楽天戦になった。

優勝決定寸前の意気込み

「この試合に負けたら相手チームの優勝が決まる」という試合では、たとえその年にどんなにチームが低迷していようが驚異的な強さを誇る。
オリオンズ時代の1988年に注目を集めた近鉄バファローズとのダブルヘッダー「10.19決戦」が最も有名で、この時は第1試合を落としたものの第2試合(近鉄にとっては最終戦)を引き分けに持ち込み、近鉄の優勝を阻んだ。
1995年オリックス・ブルーウェーブ3連戦ではマジック1で迎えた相手チームに伊良部秀輝小宮山悟エリック・ヒルマンの3本柱で3連勝し、この年の阪神・淡路大震災を受けて「がんばろう神戸」のスローガンの下で戦ってきたオリックスの地元胴上げを阻止した。2000年福岡ダイエーホークス2連戦、さらに2002年西武ライオンズ3連戦も、マジック1で迎えた西武ライオンズに2連勝(ただしダイエーが2戦目終了後のナイトゲームで日本ハムファイターズと引き分けた時点で西武の優勝が決定。翌日の3戦目は0-3の完封負け)。特に初芝清の猛打が光り、絶不調の2000年でさえ、その年初めてと2回目のヒーローインタビューは、胴上げを阻止した2連戦だった。
2005年はプレーオフ第2ステージ最終戦で「引き分けでもソフトバンクの優勝(ロッテは勝てば優勝)」という状況となったが、8回表に里崎智也の二塁打で逆転。9回裏に小林雅英が同点のランナーを出しながらも、最後に第3戦でサヨナラ安打を放った川崎宗則をレフトフライに仕留め、3-2で勝って優勝した。この試合で逆転の口火を切ったのは、やはり初芝の奇跡的な内野安打だった。
2006年も交流戦で東京ヤクルトスワローズに負けるとヤクルトの優勝が決定したが(ただしロッテにも同率優勝の可能性はあった)、5回に里崎の満塁ホームランで逆転し、ヤクルトの優勝決定を阻止した。
2006年6月現在、負ければ相手チームの優勝が決定するというゲームでは9連勝中である(2003年9月30日、千葉マリンでのダイエー戦では10-13で敗れてダイエーの胴上げを見る羽目になったが、この時は試合途中でマジック対象の西武がYahoo!BBスタジアムでオリックスに3-6で敗れたためにダイエーの優勝が決定しており、厳密に言えば優勝を阻止できなかったわけではない。ただし優勝が決定した時点で、ロッテはダイエーにリードを許していた)。

第1試合
近鉄000010021=4
ロッテ200000100=3
第2試合
近鉄0000012100=4
ロッテ0100002100=4

※すでに全日程を終了していた西武が優勝

ロッテ000100000=1
オリックス000000000=0
ロッテ010100100=3
オリックス000010000=1
ロッテ000100050=6
オリックス030000000=3

※オリックスは9月19日西武球場での西武戦に8-2で勝ち優勝

ダイエー220001000=5
ロッテ02203000x=8
ダイエー000031000=4
ロッテ20200100x=5

※ダイエーは10月7日福岡ドームでのオリックス戦に1-0で勝ち優勝

西武000000001=1
ロッテ00110301x=6
西武000000000=0
ロッテ20010010x=4

※西武は9月21日、マジック対象のダイエーが東京ドームでの日本ハム戦で1-1で引き分けたため優勝

ロッテ000001020=3
ソフトバンク011000000=2

※3勝2敗でロッテが優勝

ロッテ200050100=8
ヤクルト004100020=7

※結果的にヤクルトはこの試合から3連敗を喫し、交流戦優勝を逃す

たけし軍団との試合

1992年11月29日たけし軍団がこの年最下位に終わったロッテと試合を行った。たけし軍団は前の年(1991年)に最下位だった阪神タイガースと試合をして勝利を収め、阪神がこれに奮起してこの年2位に浮上したのをきっかけとしてか、パリーグの最下位も立て直そうとしたのである。
試合は2-1でたけし軍団が勝利し、ロッテも奮起するかと期待されたが、翌1993年は5位に終わった。

2ケタ勝利6人衆

2005年シーズンに、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利をマークした。同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年1963年南海ホークス以来である。
また久保は新人ながら10勝をマーク。この記録は1950年(毎日時代)の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利をマークしたのは球団史上初である。

弁当の呪い

千葉駅などで駅弁を販売する万葉軒伊良部秀輝をモチーフとした「イラブ弁当」を発売して以降、千葉マリンスタジアムではロッテの人気選手をモチーフにした弁当が発売されている。しかし「弁当が発売されると、モチーフとなった選手に何らかの不幸が降りかかる」という話がまことしやかに語られるようになった。最初に提唱したのは朝山千代丸とされ、代表的なものでは「小坂(誠)スチール弁当」「石井浩郎弁当」「ジョニー黒木(知宏)弁当」が発売された直後に、3選手とも故障で戦線を離脱している。日本一になった2005年にもベニー・アグバヤニをモチーフとした「ベニーちゃんのロコモコランチボックス」を発売したところ直後にチームの連勝がストップ、さらにベニーが故障で戦線離脱。また「イ・スンヨプ(李承燁)ホームラン弁当」を発売したところ、李はチームトップの本塁打を記録したもののオフに読売ジャイアンツへ移籍してしまった。
福浦和也が弁当の依頼を断っているのをみると、この話はある程度は察知されているのかもしれない。ただし選手が公言してないため、この話を選手が知っているのかどうかは不明である。
この「弁当の呪い」は他球団にも影響しており、2005年開幕カードの楽天や交流戦の相手となるセ・リーグ各球団(巨人・ヤクルト以外)への「ウェルカム弁当」を発売したところ、楽天には開幕2戦目に26-0と記録的大勝を飾り、交流戦ではヤクルト以外に勝ち越した。そのヤクルトも、目の前でロッテの交流戦優勝を決められてしまった。
なお、この項目に関しては、ロッテ弁当伝説も参照のこと。

薬物使用疑惑

2005年のシーズン途中に、一部週刊誌上にてロッテ選手による禁止薬物使用の疑惑が報道された。記事の体裁は関係者による内部告発という形をとっていたが、監督をはじめ球団関係者はこれを否定。急遽選手を検査した上で潔白を証明してみせるとまで宣言したが、最終的に選手を検査させず、うやむやになったまま真相が明らかにされることはなかった。
また、この事件をきっかけに球界では「薬物検査」の必要性が声高に叫ばれるようになり、ついに2006年度より導入されることとなった。

放送

インターネット中継

パシフィック・リーグセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。そこそこの通信品質でインターネットのコネクションを確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦が出来る状況になっている。

各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、gyaoでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。

「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。

中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。

2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。

また、2006シーズンからはNTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信している。

いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。

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