富山市
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富山市(とやまし)は、北陸地方の西部、富山県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。国から中核市の指定を受けている。
現在の富山市(新富山市)は、2005年4月1日に、従来の富山市(旧富山市)を初めとする7市町村による合体合併によって設置された物である。合併後には、全国の県庁所在地の中で面積においては二位となり、一方で人口密度においては下から二位となった。
旧富山市は、「越中富山の薬売り」の異名を持つ城下町として有名である。(※旧富山市に関連する項目については、#旧富山市で統めて述べる。)
富山県の中部に位置していて、県の面積の1/3を占める。西部になだらかな呉羽丘陵が横たわるほかは、神通川、常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。このため、南東部を見渡すと雄大な北アルプス立山連峰を一望できる。北部に目をやると、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。
気候は北陸地方の他の地域と同様、年間降水日数が多く、特に冬期は多量の降水を見るが、地形的な問題で、冬の季節風が比較的弱いものの、フェーンの影響を特に受けやすい。
市街化区域内は区画整理され、東西と南北に碁盤目状に延びる道路と、富山駅を起点とした5本の放射状道路により構成された美しい近代計画都市となっている。一方、古い町並みの残る八尾地区は「越中おわら風の盆」で全国的に知られ、多数の観光客が訪れる。
富山の地名は、深山に対する外山(とやま)という説が有力とされている。
(ここでは2005年4月以降の富山市について述べる。2005年3月までの富山市については#旧富山市の項目へ。)
(※いずれも旧富山市にて締結された物。)
富山駅周辺は、富山県の経済における中心地である。
富山経済は、廃藩置県後の明治期の富山県においてその基を築いた。代表的なものには、北陸最大にして地方銀行全国2番目の規模を誇る北陸銀行や、全国と比較して最も安価な水準の電力を供給する北陸電力の本店が富山市に所在し、富山県の経済活動の基盤を形成している。
また、富山県の経済を側面から支えている高等教育機関「富山大学」も、富山市民や団体の寄付行為によって生まれた旧制富山高等学校、富山薬学専門学校の流れを汲んでいる。
中心商業地は、総曲輪・西町界隈であるが郊外型SC等の進出による打撃は大きく、現在求心力を低下させている。核テナントに大和が参加して総曲輪通に再開発ビルを建設中であるが、現大和跡地については明確な利用方法が決まっていない。更に大手百貨店の西武富山店が撤退を決定し、中心部のさらなる求心力低下が危惧されている。中心商店街は総曲輪商店街と中央通り商店街である。
この二つの商店街はアーケードで連続しており、二つを合わせたアーケードの長さは1kmにもおよび北陸最大の規模になる。しかしその反面、長すぎるため、効率が悪く中央通り商店街の一部分はシャッター商店街と化している。中央通り商店街の一部を商店街と住宅街に分けて商店を一箇所に集約するという構想がある。
行政側は駅周辺に商業ビルを建てた為に、中心部との客の食い合いとなり本来は総曲輪・西町が中心部であるが、実際、中心部は駅前なのか、総曲輪・西町なのか曖昧になっている感がある。現在も新幹線開通に伴い富山駅の高架化・区画整理も予定されており、駅周辺は今後も発展すると考えられる。
夜の歓楽街は桜木町である。表通りに面していないため夜でも分かりにくい場所にあるが、飲食店街としては県内最大である。
とりわけ旧富山市は、日本海側屈指の工業都市である。
戦前より続く産業として、江戸期までさかのぼる事が出来る「くすりのとやま」に代表される製薬産業や、全国屈指の製造量を誇るベアリング等の工業機械製造業がある一方、昭和後期のエレクトロニクスやロボトロニクス関連産業の隆盛により、地域内で蓄積された先進的な微細加工技術によって精密工業製品や各種微細加工素材、精密自動車部品、高機能ロボットなどの製造業が台頭している。
これら工業の製造研究拠点としての発展を裏付けているものは、安価な電力供給と良質で豊富な工業用水を容易に得られる地理的条件、富山大学・富山県を中心とした産学官連携研究施設の充実、そして重要特定港湾「伏木富山港富山地区」や北陸自動車道、東海北陸自動車道等による太平洋側工業地域と環日本海側諸国への交通の利便性を兼ね備えた地域である事が挙げられる。
都市部の他の地域には水田が広がり、富山市でとれる米は「八町米(はっちょうまい)」という名前でブランド化されている。呉羽地区では梨の生産が盛んであるが、あまりにも美味のためほとんどが県内で消費されている。また、旧八尾町の黒瀬谷地区では、わずかながらブドウを生産している。
水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司である。
(東証一部上場企業)
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隣接する市町村のうち、鉄道線により直接結ばれているものに限定した。
| 旧・富山市 | ||
| 廃止日 | 2005年4月1日廃止 | |
| 廃止理由 | 新設合併 | |
| 合併市町村 | 富山市 (旧制)、大山町、大沢野町、 婦中町、八尾町、山田村、細入村 →富山市 (新制) | |
| 現在 | 富山市(新制) | |
| 廃止時点のデータ | ||
| 面積 | 208.81km² | |
| 総人口 | 322,192人 (2004年9月30日) | |
| 隣接自治体 | 新湊市、下村、小杉町、 婦中町、大沢野町、大山町、 立山町、上市町、滑川市 | |
| 市の木 | ||
| 市の花 | ||
| 富山市役所 | ||
| 所在地 | 〒930-8510 | |
| 富山県富山市新桜町7番38号 | ||
| 電話番号 | 076-431-6111 | |
ここでは、2005年3月までの富山市(旧富山市)の領域に該当する事項について述べる。
富山市 (-2005年3月31日)は、北陸地方の西部、富山県の中部の市。
2005年4月1日に、7市町村の合併によって、富山市 (2005年4月1日-)の一部となった。このうち、2005年3月までの富山市が、旧富山市と呼ばれる。
新富山市は新設合併によって設置された自治体であり、2005年3月までに存在した富山市は、合併によって廃止されている。制度上では、新富山市と旧富山市は、全く別の自治体である。
郡については、旧富山市は上新川郡に属しており、当初は「富山県」の名称は「新川県」であった。
旧富山市の市役所本庁舎は、現在の新富山市の市役所本庁舎に当たる。
富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。
神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、国造である大河音足尼を出した伝統的氏族として知られる。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考えられている。 天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、更に東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。 平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田若しくは吉岡)などの荘園が立荘された。 また、北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。
律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河・鳥羽・後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。 白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺氏)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺氏)が、高野荘を藤原実行一門(三条氏)が支配した。勧修寺氏の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。
源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人、北条朝時(名越)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曽義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。 このころ、名越朝時の被官として後の新川郡分郡守護代家である千葉一族椎名氏が入部し、在地に土着した。
越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして、名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において、北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。
南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。桃井直常は足利直義に心従していたため、対抗する足利尊氏の怒りを買い、斯波氏によって蹂躙され、長沢(現富山市長沢)において討ち果てたと伝えられる。室町時代に、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。細川氏は太田保を所領し続けたため、越中守護斯波氏に追いやられた桃井氏の残党や国人は、太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。この頃、太田保領内に富山郷が現れる。
永和三年(1377年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之が太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった。ところが、細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで、畠山氏の世襲となる。
当時の越中は、新川郡を椎名氏が、射水郡・婦負郡を神保氏が、砺波郡を遊佐氏が「守護役」から発展した分郡守護代として被官していた。守護代の下には「又守護代」や「郡使」などと呼ばれた国人たちがいた。
越中守護畠山持国の跡目争いから生じた応仁の乱の際には、これら分郡守護代達は畠山政長の臣下として従軍し、なかでも神保長誠は、政長自決の後、政長の立てた将軍足利義材を越中放生津に迎え、小幕府(越中公方)を構えるに至った。この際も、越中新川郡の椎名氏などを含む諸国の畠山守護代たちは足利義材の受け入れに協力し、分郡守護代達の足並みは揃っていた。だが、政長と言う要を失った畠山氏は、各地の国人たちを束ねることが出来ず、越中においても、各分郡守護代の勃興が起こり、細川氏の庇護を受けた本願寺による一向一揆が力をつけるなど、歴史の幕は次なる権力闘争へと移っていった。
戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。一向一揆の平定により越中国の守護となった佐々成政が入城し、柴田勝家と伴に上杉軍の魚津城攻略をおこなう拠点となった。
当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫をおさえ、以降の下流域全体の発展につながった。
江戸時代に入ると、加賀藩二代藩主前田利長が富山城を隠居地としたが、1609年に焼失したため、高岡へ移った。その後、利長養嗣子となった三代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。
この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、薬の製造と販売を一括して行った上にそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。
中世以来三津七湊の一つとして栄えた岩瀬地区では北前船などの日本海航路の拠点として発展した。
1871年8月29日の廃藩置県により、富山には新川県(にいかわけん)の県庁が置かれた。幾度かの県の分合が繰り返された後、1883年以降には新川県は富山県に改名され、富山は富山県の県庁所在地となる。
1889年4月1日の市制施行の後、臨海部を中心として機械工業や化学工業による工業化が進んでいた。1899年に北陸本線が開通し、江戸時代から続く日本海航路の拠点である岩瀬港や、甲信地方・東海地方とを結ぶ交通の要衝として発展していた。
岩瀬港周辺では廻船問屋が栄華を極め、特に大きな廻船問屋は馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の五つの問屋であった。なかでも馬場家はその八代目の妻である馬場はる子が旧制富山高等学校の設立に尽力し、現在の金額で総額160億円もの寄付を行い、富山市初の名誉市民となっている。
また、売薬業においても江戸時代から着々と積み重ね、大きく成長した薬問屋が隆盛していた。中でも荻原氏、中田氏、金岡氏、密田氏、松井氏などが特に大きな富山市在地の問屋として知られていた。彼等の中から、北陸銀行初代頭取である中田清兵衛や、北陸電力の前身となる富山電灯の創業者である金岡又左衞門が生まれている。
第二次世界大戦の末期、1945年8月2日の富山空襲によって、死者2275人を出し、市街地の9割以上が焼失する被害を受け、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された。しかし、富山市民はその焦土の中でも文化を積み上げる行為を断念しなかった。爆撃を受けた富山薬学専門学校では、富山化学工業の社長であった中井俊雄は私財を投じてその復興を助けた。また、多くの市民が復興募金に応じ、富山市街区の近代都市としての再生を助けた。
1950年戦後の焼け野原になった富山市において都市計画が策定された。富山駅を中心とした放射状道路と碁盤目の直交した道路によって構成された近代都市計画が推し進められた。戦前から存在した港湾設備や重化学工業や機械工業の復興が行われ、高岡市、新湊市(現:射水市)などの臨海部を占める地区と一体となった工業地帯を形成した。更に工業の発展とともに需要の高まりを見せた電力供給のため、河口域には大規模な火力発電所が整備された。そうして富山市は高度経済成長期を駈け抜けていった。
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