小沢一郎
小沢 一郎(小澤 一郎、おざわ いちろう、昭和17年(1942年)5月24日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(13期)。民主党代表(第6代)。 |
| 生年月日 | 昭和17年(1942年)5月24日 |
| 出生地 | 出生地・東京市下谷区(現:東京都台東区) 本籍地・岩手県奥州市水沢区(旧:水沢市) |
| 出身校 | 慶應義塾大学経済学部卒業 日本大学大学院退学 |
| 学位・資格 | 経済学士 |
| 前職・院外役職(現在) | 大学院生 |
| 所属委員会 ・内閣役職(現在) | 衆・国家基本政策委員会委員 衆・懲罰委員会委員 |
| 世襲の有無 | 2世 父・小沢佐重喜(衆議院議員) |
| 選出選挙区 (立候補選挙区) | 岩手4区 |
| 当選回数 | 13回 |
| 所属党派(現在) | 民主党(小沢グループ) |
| 党役職(現在) | 代表 岩手県総支部連合会最高顧問 |
| 会館部屋番号 | 衆・第1議員会館605号室 |
| ウェブサイト | ■小沢一郎ウェブサイト■ |
昭和17年(1942年)5月24日、東京市下谷区(現:東京都台東区)御徒町に小沢佐重喜・みちの長男として生まれる。本籍地は岩手県奥州市水沢区(旧:水沢市)。3歳から14歳まで水沢に過ごす。
東京都立小石川高等学校卒業後、東京大学を目指して2浪したが断念して、慶應義塾大学経済学部に合格し入学する。
父の急死により、大学院在学中の昭和44年(1969年)、第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選する。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受ける。
党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根康弘内閣では自治大臣兼国家公安委員長を歴任する。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らとともに派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立する。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた。
竹下内閣では内閣官房副長官に就任。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「豪腕」と称された。
湾岸戦争に関連し国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連が推す現職に代わり新人を擁立。しかし敗北したため責任をとり党幹事長を辞任したが、直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。しかし次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。
海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、金丸から後継首相になるよう説得される。しかし当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が一時期出た。
党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。しかしいずれも当選回数・年齢も上であった3人を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。
平成4年(1992年)、東京佐川急便事件を巡り金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らとともに羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田・小沢派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田・小沢派は反主流派に転落した。小沢はこの苦境を覆すために、持論であった政治改革の主張を前面に立てて、自らを「改革派」と呼び、主流派には「守旧派」とレッテルを貼って世論の支持を獲得しようとした。
平成5年(1993年)2月17日、 佐川急便事件に関して証人喚問を受ける。
野党から宮沢内閣不信任案が上程され、平成5年(1993年)6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した。6月21日には、武村正義、田中秀征らが自民党離党、新党さきがけを結成した。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に不在であったため「党首に就任した羽田の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢は内閣総辞職を表明し、後任の自民党総裁に河野洋平が選出される。
小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と極秘裏に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜する。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣の表の顔であるさきがけの武村正義と激しく対立した。
平成6年(1994年)2月3日、細川は未明に突如、消費税を廃止して7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発にあう。これは小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎を中心に決定したことであったが、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至った。特に官房長官の武村は公然「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます先鋭化する。そのため小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
細川の突然の辞意は、小沢にとっては寝耳に水のことであったが、直ちに後継首班に向けて始動する。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫、連立与党は羽田の後継首班に合意する。しかし、首班指名に先立ち平成6年(1994年)4月25日、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権を離脱を発表する。連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。
小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。小沢は羽田と相談した上で、解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢が羽田の後継として狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、番町政策研究所(河本派)代表世話人でもあった。平成6年(1994年)6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。しかし決選投票で261対214で村山に破れ、小沢は政治家人生初の野党に転落する。新生党内では、愛野興一郎らを中心に、小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するためには、小沢の豪腕が必要とされた。9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」の結成を見た。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。
小沢を中心に新・新党結成が準備され12月10日、横浜のみなとみらい21・パシフィコ横浜で新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。
平成7年(1995年)7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。平成7年(1995年)12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突する。小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし直後に投票者名簿が破棄されるなど選挙が不明瞭さを残した事から羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
平成8年(1996年)10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席を獲得、事実上敗北した。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、平成8年(1996年)12月26日、羽田、奥田敬和ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。平成9年(1997年)、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月25日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の解党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、解党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
平成10年(1998年)1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
平成10年(1998年)7月12日の第18回参院選で6議席を獲得。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された。(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した。)小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
平成10年(1998年)10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始する。そして紆余曲折を経て平成10年(1998年)11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
平成11年(1999年)1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。
議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。
平成11年(1999年)7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は小渕に対して自自両党の解散、新しい保守党の結成を要求した。両者は平成12年(2000年)4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞に倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する。小沢と袂を分かった保守党側は、半分に分裂するのだから政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることになる。分裂の結果、自由党の勢力は、衆議院議員18名、参議院議員4名、計22名に半減した。
しかし分裂直後に行われた平成12年(2000年)6月25日の第42回衆院選では現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。このとき約20億円投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる。
平成13年(2001年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。
平成14年(2002年)、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。小沢も自由党で選挙を戦うには限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。
鳩山は民主党と自由党の合併に向けた協議を行うことを発表するが、党内調整が不十分であったため、求心力を強化するつもりが皮肉にも求心力を失い代表辞任を余儀なくされる。党代表に再び選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進、菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立する。また選挙が近いという議員心理が合併を後押ししたと思われる。
平成15年(2003年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。平成15年(2003年)11月9日の第43回衆院選で民主党は公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。
民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策が完全に一致し、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を近くすることになる。また小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、これは失敗した。
民主党に移った小沢はそれまでの新自由主義一辺倒から「地方経済」と「雇用」の重視の方針を打ち出した。
平成16年(2004年)5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる昭和61年(1986年)以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。
平成16年(2004年)7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区と比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数で自民党(49議席)を上回る勝利をおさめた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任。
平成17年(2005年)9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われる。争点の設定に成功した自民党に追い風が吹き、郵政民営化に対する対立軸を示せなかった民主党は惨敗する。岡田は党代表の辞意を表明。小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選・引退する。党代表に前原誠司が選出され、小沢は党代表に次ぐポストである代表代行就任を依頼されたが、岡田執行部の副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。
平成18年(2006年)3月31日に前原誠司がいわゆる「メール問題」の責任をとる形で党代表辞任を表明した後、小沢は「先頭に立って党を再生して政権交代ののろしを上げる決意」と記者会見で述べ、後継代表に名乗りをあげた。 4月7日に行われた民主党代表選で菅直人を破り、第6代の党代表に選出された。代表選後、小沢は、党を挙党一致体制にするため、党代表の座を争った菅を党代表代行・鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を決断(3者会談は党の最高意思決定機関として機能している)、また前執行部と次の内閣を全員残留させることにより挙党一致を党内外に強くアピールした。
小沢が党代表に就任した直後、4月23日に行われた衆議院千葉7区補欠選挙では、メール問題での混乱や都市部補欠選挙特有の低投票率が予想されたため当選は不可能だと思われていたが、新代表への期待が高く、党公認の太田和美が自民党公認候補を僅差で破り当選。これにより選挙に強いという小沢神話が復活し党内の求心力が高まる。9月下旬に予定されている党代表選では再選が確実となった。
5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と自身の体調管理を挙げたことに関して、「議会軽視だ」「議会人として考えられない」などの批判が各方面から相次いだ。またあえて自身の健康状態を語ったことに対して、様々な憶測が流れた。
政党を変遷するその政治的行動を非難される事が多い。しかし政局判断に関しては柔軟に対応することに躊躇はしないが、政治理念、政治哲学に関しては一切の妥協をしない。
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についての Wikipedia
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