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徳川家康凡例

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時代 }

生誕 }

死没 }

改名 松平竹千代(幼名)、松平元信、
松平元康、松平家康(別名)

別名 次郎三郎(通称)。大御所(将軍引退後)。
狸爺(仇名)

神号 東照大権現

戒名 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
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徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日1543年1月31日) - 元和2年4月17日1616年6月1日) )は、江戸幕府の初代征夷大将軍

概要

戦国時代三河国岡崎の小大名として生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友(めいゆう)として版図(はんと)を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げ、海道一の弓取りと呼ばれる。

豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、五大老(ごだいろう)筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任せられ、江戸江戸幕府を開いた。 小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことや、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作から、謀略(ぼうりゃく)なら秀吉や信長より上なのではないかと思われるほどに長けている。このことをしめす言葉として、家康のあだ名の「狸爺」がある。
ただし彼が謀略を用いだしたのは秀吉の死後であり、それまでは策謀の片鱗も見せず義元信長秀吉に対し、馬鹿正直なほどの律義者を演じ続けたことに留意する必要がある。

江戸幕府の開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康はその始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。

生涯

忍従の日々

三河国国人出身の松平氏八代当主松平広忠の子として、天文11年12月26日(1543年1月31日)岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘於大の方で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。

2歳の時、母の実家の水野忠政の死後、嫡男水野信元が織田方についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大の方を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。

5歳の時、父広忠は尾張国織田信秀に対抗するため駿河国今川義元に帰属し、竹千代は人質として駿河国府中へ送られるが、その途中立ち寄った田原城城主で義母の父戸田康光の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父広忠は家臣に殺され、岡崎は義元の派遣した城代により支配される。竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子織田信広との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から元の字の偏諱を受け次郎三郎元信と名乗り、義元の姪である関口親永の娘(築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。名は後に祖父の松平清康の名を取って蔵人佐元康と改めている。1558年には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻めた。

忍従の心象が強い駿府時代であるが、当時の駿府は非常に先進的な文化都市であり、ここで都市型の教養を身につけたことが後の全国制覇に大きく役立ったという面も否定できない。また、当時駿府には実の祖母である源応尼(於大の方の生母で後に広忠の父・松平清康と再婚して広忠の育ての親ともなった)が居住しており、実際にはこの祖母の屋敷で少年時代を過ごしていたとも言われている。更には今川義元も自分の姪を家康に嫁がせるなど彼個人に対してはそれほどひどい仕打ちなどしておらず、むしろ新しい親族として期待していたという見方もできる。後に家康が隠居地として駿府を選んだのも幼少期にそれほど悪い生活をしていなかったことの現れだろう(幼少期にひどい生活を強いられた場所に普通、人間は住みたがらない)。忍従の駿府時代というのは後世の御用史家がつくりだした創作なのかもしれない※1

※1 ただし家康は天正9年(1581年)に武田氏領有の高天神城を落城させた際に、捕虜は全て助命したものの、人質時代の家康につらく当たった孕石元泰(今川氏旧臣)に対してのみ切腹させた。元来、家康は旧怨を以て人に報いるということをしない性質で、彼にしては稀有の処分である。

信長の盟友

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立を果たす。永禄5年(1562年)には義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び、翌年には元康の「元」の字を取って家康と名を改めた。

その後は今川氏と戦って三河東部に進出し、永禄9年(1566年)までに三河の一向一揆を鎮め、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下三河守の叙任を受け、家康個人のみ松平から清和源氏新田氏支流とする徳川に改姓した。永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び、今川領であった遠江国の大半を攻め取り、掛川城で氏真を降し、元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。

信長が、松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成したが、このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し信長を助けた。

武田家との抗争

元亀3年(1572年)、上洛を目指す信玄が遠江・三河に侵攻すると、これを迎撃したものの三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市内)で大敗し、浜松城に馬上で脱糞するなどして逃げ帰るが、信玄の病没により難を逃れる。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めの為に描かせたと伝わる(しかみ像)。また浜松城での籠城戦の時だが「空城の計」を使い、それを怪しんだ武田信玄が進軍をせずに撤退をしたとされている。この後、信玄は陣中で没する

天正3年(1575年)5月には信玄の死後武田家を継いだ武田勝頼を信長の援軍を得て長篠の戦いで破る。天正7年(1579年)には信長により武田氏に内通の疑いをかけられた正妻築山殿と長男信康を、同盟関係維持のために自身で殺害を命じる。信康は優れた武将であったと伝わり、家康は後の関ヶ原の戦いで、三男(後の二代将軍徳川秀忠)が戦場に遅れた際、「信康がいれば」と述べたという(信康が優れた武将であったとする説は、近年異論も多い。織田信忠を参照。)。天正10年(1582年)の信長の武田攻めでは駿河国からの攻撃を担当し、武田氏滅亡後は駿河国を領国として獲得した。

東海一の弓取り

天正10年(1582年)6月、駿河拝領の礼のため、信長の居城・安土城を訪れた。その後、堺で遊覧中に京都で本能寺の変があった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、きわめて危険な状態だった。家康はただちに、伊賀越えを決行し、伊勢の国から海路三河にかろうじて戻った。家康は明智征伐を企図したが、結局間に合わなかった。召集の指示が緩慢でどこまで本気で戦いに臨もうとしたかは定かではない。

一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐国信濃国が俄かに動揺した。甲斐国と信濃国は、信長の代官の河尻秀隆が領有していたが、河尻は武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買い、信長の死後、一揆が発生して河尻を攻め殺してしまったのである。家康は、本多忠俊岡部正綱、武田旧臣の依田信蕃を先鋒として甲斐国に派遣し、自らも八千の軍を率いて、甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐国と信濃国の混乱を突こうとしたのは関東地方後北条氏も同様で、北条氏規北条氏照ら五万五千の軍勢が碓氷峠を越えて信濃国に侵攻。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信四郡を上杉に割譲することで和睦し南下。甲斐国へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川対北条の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃や、信蕃の誘いでこの時は家康方についた真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方から和睦の提示を受ける。

甲斐国と信濃国南半分は、徳川の切り取り次第に委ねる、徳川は関東地方に侵攻しない、という驚くべき好条件を引き出し、八千の兵で五万の大軍を去らせ、合計五ヶ国を領有する大大名に成長。

家康は今川氏・武田氏の旧臣を積極的に雇って家臣団を強化するとともに、本拠地を駿府に移した。こうして家康は東海一の弓取りとして勢力を拡大した。

五大老筆頭

信長の死後、清洲会議賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉が台頭すると、天正12年(1584年)、家康は信長の次男信雄を擁し小牧・長久手の戦いで秀吉と対峙し戦い、池田恒興、森長可など討ち取り戦況を有利に進めるが、信雄が秀吉に懐柔され兵を引き、その和睦後、秀吉の妹朝日姫を後妻に迎え、次男の秀康を秀吉の養子に出す。秀吉の上坂要求は拒むが、天正14(1586年)秀吉が生母大政所を人質に派遣すると、上洛し秀吉に臣従する。

天正18年(1590年)に秀吉が北条氏を滅ぼすと、それまでの東海五ヶ国に代わり関東武蔵上野下総上総相模伊豆六ヶ国へと転封され、本拠を江戸へ移す。これにより家康は秀吉を上回る255万石を領有し、五大老の筆頭に列せられ、官位も内大臣となった。秀吉の朝鮮出兵では肥前名護屋城へ出陣したが、渡海せず国内を動く。

関ヶ原の戦い

thumb|250px|関ヶ原古戦場 秀吉の死後、遺言で定められていた合議制を無視し、禁止されている大名同士の婚儀などを行う。こうした政権運営を巡って他の大老や五奉行石田三成らと対立。また、このときに、三成と対立していた、福島正則や、加藤清正を味方につけた。五大老前田利家の死後、石田三成を追放し前田利長を屈服させ、伏見城・大坂城西の丸を実質占領した。

慶長5年(1600年)、家康が会津上杉景勝討伐に向かって畿内を留守にした隙に三成らが五大老の毛利輝元総大将として挙兵すると、関ヶ原の戦いでこれを破って覇権を確立した。勝利の後、大坂城に登城し西軍撃破を秀吉の遺児である秀頼とその生母淀殿に報告。関が原の戦いが三成の野心による蜂起であったとして、豊臣氏としてこれを鎮圧したものとして処理された。結果、西軍として加わった者を改易、また、減封(例 上杉120万石→30万石、毛利100万石→30万石など)東軍についた譜代、豊臣恩顧の武将には豊臣氏の領地から恩賞を与え、豊臣氏の所領は200万石から摂津・河内・和泉65万石へ大幅に削られる結果となった。

天下の形勢は、これで一気に徳川家に流れたものと見て差し支えはないが、武家にとって主従関係の大義名分は何より重いものであり、徳川家が豊臣家の大老であることには変わりなかった。 

征夷大将軍

慶長8年(1603年)、征夷大将軍右大臣に任じられ、江戸幕府を開くと、豊臣家五大老筆頭から武家の棟梁としての地位を手に入れた。家康は秀吉の義弟にして、五大老筆頭、何より武家の棟梁の資格を持つ源氏を名乗っていたことから、朝廷に運動し征夷大将軍の宣下を請うた。一歩間違えば天下簒奪の謗りを免れないが、秀頼幼少を理由にするとも、西欧列強への備えを理由とするとも、当時の家康の勢力からすれば大儀名分はどうにでもなったといえよう。しかるに、豊臣家がそれを心穏やかに見る筈もなく、豊臣方には将軍就任を一時的なものであると印象づけておいた。

当時における主従は武家社会では重要であるが、朝廷の権威をもってしては、私的なものでしかない。朝廷から武家の棟梁として認められたことで、家康は勢力、声望、官位、天下号令への大義名分を得、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府にあたって武家諸法度禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形成挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。

大御所

慶長9年(1604年)右大臣を辞し、翌年には息子の秀忠に将軍職を譲って徳川将軍家による将軍職の世襲を確実なものとした。家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒。結局家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、ことをおさめた。しかし、豊臣家の権威が大きく傷ついたことはいうまでもない。慶長12年(1607年)からは隠居と称して駿府城に移るものの、江戸の将軍に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。晩年は豊臣氏の処置に精魂を注ぎ、1611年(慶長11)には二条城で豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自認する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで岳父への挨拶にという名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功。これで秀頼の方から徳川家に足を運んだ形となり、天下の衆目は家康の天下となったことを改めて確認することとなった。

慶長19年(1614年)には方広寺鐘銘事件をきっかけに開戦し、その都市の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼし、天下統一を達成。その年のうちに、武家諸法度・禁中公家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川政権による日本全域の支配を実現した。

元和2年(1616年)、太政大臣に任ぜられ、駿府城において死去、享年75。正一位を贈られた。死因は、鯛の天ぷらによる食中毒とする説が有名であるが、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌と考えられる。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」を詠んだ。

年表

和暦 ユリウス暦グレゴリオ暦 月日
宣明暦長暦)
内容 出典
天文11年 1542年 12月26日 生誕  
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い  
永禄5年 1562年 1月15日 清洲城を訪問。織田信長と同盟結ぶ。
永禄9 1566年 12月29日  従五位下三河守  
永禄11 1568年 1月11日  左京大夫  
元亀1570年 6月28日 姉川の戦い  
元亀2 1571年 1月5日  従五位上
1月11日 侍従 
元亀3 1572年 12月22日 三方ヶ原の戦い  
天正2 1574年 1月5日  正五位下  
天正3年 1575年 5月 長篠の戦い  
天正5 1577年 12月10日  従四位下  
12月29日 右近衛権少将  
天正8 1580年 1月5日  従四位上  
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変  
天正11 1583年 10月5日  正四位下    
10月7日 左近衛権中将  
天正12 1584年 2月27日  従三位参議  
3~4月 小牧・長久手の戦い  
天正14 1586年 10月4日  権中納言  
10月27日 大坂城で、豊臣秀吉に臣従
11月5日 正三位。  
天正15 1587年 8月8日  従二位権大納言  
12月28日 左近衛大将左馬寮御監両官職兼任  
慶長1596年 5月8日  正二位内大臣  
慶長5年 1600年 9月15日 関ヶ原の戦い  
慶長7 1602年 1月6日  従一位  
慶長8 1603年 2月12日  右大臣征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。  
10月16日 右大臣辞任   
慶長10 1605年 4月16日 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任
慶長19年 1614年   大坂冬の陣  
元和1615年 7月17日 禁中並公家諸法度制定  
7月 武家諸法度制定  
  大坂夏の陣  
元和2 1616年 3月17日  太政大臣     
4月17日 薨去  
 月 日 贈正一位。  

祭祀

250px|thumb|right|日光東照宮 奥社 墓所 家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海崇伝の間で、権現明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に乗っ取って薬師如来を本地とする権現とされ、1617年元和3)3月9日東照大権現の神号と神階正一位が贈られる。東照社は1645年正保2)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。

現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては各地の東照宮、愛知県岡崎市の大樹寺、東京都台東区上野の寛永寺が有る。

評価

名君説

  • 家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京都大坂博多など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含んだ全国総石高の約4分の1に相当する約700万石を独占管理し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他大名家の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名家が取り潰し(改易)の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった(余談になるが天皇家を法度で明確に取り締まったのは江戸幕府が日本史上初である)。幕府に従順な大名家に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さなかった。このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させ、全国の諸大名・朝廷・天皇家を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。
  • このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」と厳しい批判が多い。しかし、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国の時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ日本史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は江戸幕府の功罪は別として今なお高く評価されている。また、後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もある。なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、と主張する者もいる。
  • 加藤清正浅野幸長を毒殺したという説もあるが、家康は毒殺という手段をそれまで用いたことはなく、後年、秀頼の毒殺が進言されたときも、これを退けていることから、家康が両大名を毒殺した可能性はきわめて低いとの考え方もできる。ただし、清正も幸長も死因は賢虚(花柳病)で一致している上、家康は幸長没後の翌年に大坂冬の陣を起こしていることから、可能性が完全に無いと否定することはできない。
  • 家康は功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子と孫に自分の孫娘(信康の娘と千姫)を嫁がせ、秀康の息子には、勝姫(秀忠の娘)を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。忠輝に対しても、最終的には御三家並の所領が与えられていた(越後・高田55万石)。
  • 明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であるから、江戸時代を悪とするのが政府にとって都合の良いことであったからだとも言われている。特に太平洋戦争前は秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が、大日本帝国における帝国主義的な領土拡大政策と合致し、「朝鮮征伐」と称せられるなど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と歪められた評価がなされることも多かった。
  • 山岡荘八原作の小説、「徳川家康」では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康の再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。

奸君説

  • 家康は江戸時代を通じては神君と崇められていたが、明治時代以降では陰湿な謀略家、もしくは老奸と評されることが多い。これは秀吉の死後、陰湿な謀略をもってして豊臣氏側に与していた諸大名を貶めたり、そして遂には豊臣氏を滅亡に追い込んだためである。このため、江戸時代で逆賊と評されていた石田三成らが、近年では豊臣氏を守ろうとした忠臣と評されているほどである。
  • 家康という人物を示す仇名として、「狸親父」というものがある。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に家康が卑劣な謀略の限りを尽くして天下を牛耳ろうとした卑劣な人物ということをも現す大変不名誉な仇名となっている。事実、大坂の陣直前に豊臣氏恩顧の有力大名である加藤清正浅野幸長が急死したのは、家康の謀略によるものと言われているし、その他の謀略(方広寺鐘銘問題や関ヶ原までの謀略など)においても卑劣な色が強く、これが近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。徳川側の史料といえる「徳川実紀」でさえ、家康の謀略の数々を何とか懸命に弁護しているほどである(ただし、大久保長安事件だけに対してはさすがに家康を非難しているものもある)。
  • 大久保長安事件では長安の遺児をはじめ、その関係にあった多くの諸大名が処刑・改易された。表向きの理由は長安と縁戚関係にあったこととされているが、実際に処分された多くの大名は豊臣氏恩顧の大名ばかりであり、一説に家康は長安との縁戚関係を口実に取り潰しただけであるとされている。また、家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという非道行為を本多正純に命令して平然とやってのけている。
  • また、近年では同時代の英雄である織田信長や、家康と生涯にわたって徹底して敵対した真田昌幸真田幸村親子の人気が高まっているために、家康はその対比として低評価に傾くことが多く、損な役回りをさせられることが多い。
  • さらに家康の悪名を近年において高めている理由として、自身の覇権を確立するために活躍した功臣である本多忠勝榊原康政大久保忠隣らを関ヶ原後に遠ざけたり、自分の次男である結城秀康や六男の松平忠輝らをあからさまに冷遇し、他人の子のように扱った(秀康や忠輝は器量や才能では将軍となった秀忠よりはるかに上と評されているが、二人とも顔が醜い、もしくは出生の経緯などを疑われて、秀康は三歳のときまで父と対面できず、忠輝は生まれると同時に捨てられた)ことなどが挙げられている。家康は冷遇した息子へも所領を与えているが、徳川一族の分裂を恐れた家康の血縁政策の一環に過ぎないという見方もあり、また家康が所領を与えている反面、これらに政治的・感情的にはいずれも冷徹な態度をとったことに対する批判のほうが強い。このため、歴史小説や時代劇では、家康は陰湿かつ陰険な悪謀略家として描かれていることが多い。
  • 戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗本願寺は第十一世門主顕如の死後、顕如の長男教如と三男准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、のちにこれに対して准如が西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。今までは若き日に一向一揆により苦しめられた事のある家康が本願寺の勢力を弱体化させるために、教如をそそのかして本願寺を分裂させたものとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったかどうかはっきりしない状況だが、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力ではなくなってしまった。かつて織田信長は本願寺を殲滅しようとし、豊臣秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に見たら本願寺を内部分裂させて、彼らの自滅を誘う形でその勢力を大幅に弱体化させることに成功しており、この事も家康の老獪さを表す事象として批判的に捉えられることがある。
  • 徳川将軍家を絶対君主とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには外交面でも閉鎖的な徹底した中央集権的封建支配体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったと非難している声がある。また、これに関連して「生かさず殺さず」の姿勢で百姓を支配しようとした事やキリシタンに対する厳しい弾圧への批判も多い。
  • 司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」としているが、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」「大航海時代の潮流から日本をとざし(略)世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった」と功罪比べてみれば罪の方が大きいと批判的である。そしてその功罪の原因は「徳川家という極端に自家保存の神経に過敏な性格から出て」いて、「かれ自身(家康)の個人的性格から出ているところが濃い」と家康に原因があるとしている。このように司馬は家康について極めて批判的であり、また極端に嫌悪していたようで、そのため司馬の作品中、例えば『関ヶ原』や『城塞』などの中で、家康は「謀略に長けた狡猾な、そして何の面白みもない現実主義者」として描かれる事が多い。なお司馬遼太郎の小説内での家康は、彼を陥れるかのごとく意図的に事実を曲解していることも多く、注意が必要であるが、司馬の家康観は司馬作品の人気の影響もあってか、今なお支持する人間は多い。

系譜

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

逸話

出生の異説

三河西部を治める戦国大名松平氏の出身というのは家康の創作であり、実際は群馬県・得川郷の百姓の子出身…とするものもあるが、真相は定かではない。地元に伝わる伝承に次のような話がある。
「惣ジテ我等ト申ハ東西南北をめくりしまハる旅人」「東西をきらハすして牢流(ろうる)ノ者に候(そうら)ヘハおんはつかしく存候(ぞんじそうろう)」(明治14年『松平村誌』付録)
徳阿弥の出自について

家康公遺訓

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし・・・」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介徳川光圀の遺訓とされる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。

健康に気を使った家康

家康は75歳まで生きた。何故かといえば、それは健康にとても気を使っていたからである。もともと凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。死因となったとされた鯛の天ぷらは、生涯の最初で最後の贅沢であった。また生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。ちなみに、精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録が残っている。

新しいもの好きの家康

実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。

武術の達人であった家康

剣術砲術弓術馬術水術等の武術について一流の域に達していた。剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱新陰流の流れをくむ奥山神影流剣術の奥平久賀に師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、など、生涯かけて学んでいた。ただし、家康は「大将は戦場で直接闘うものではない」と息子にいっていたといわれる。水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露している。馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流馬術を学んでいる。
また、力も強く、70歳の時に総長47(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としている。

多趣味な家康

歴史小説等で鷹狩りと薬づくり以外無趣味とされることが多い家康であるが、実はそれ以外にもたくさん趣味があった。猿楽(現在の名称は)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、「風姿花伝」で学び故実にも通じていた。なお、家康は武士的な気概や人情味のある猿楽が好きであったが家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。また、香(特に伽羅)を好み、海外まで使いを出している。囲碁本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。

家康の身長

家康の身長は推定156~160cmと言われている。また肥満傾向にあり、胴回りは110cmを超えていたと推測されている。

師は武田信玄

武田信玄には大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。1582年に武田勝頼が討たれた後、織田信長に武田残党狩りを命じられた際も、信長の命令を無視し武田の遺臣をかくまった。自分の息子信吉に武田氏を継がせ、武田信吉と名乗らせ水戸藩を任せてもいる。有名な井伊直政の赤備えも、武田の猛将山県昌景にあやかったものである。それとは反し、幼馴染であり盟友であった織田信長に対しては反応が鈍く、政策に信長を手本にしたようなものは少ない。しかし、後詰め決戦など信長の戦術を手本としたものが多いとする意見もある。晩年昔話を好んで家臣に聞かせた家康だが、信長に対してはほとんど口を開こうとしなかったとも言われている。ただしこれは秀吉同様、織田家の権力を乗っ取る形で政権を確立したことへの後ろめたさであるとする意見もある。また豊臣家を出奔した信長の弟有楽斎を家康は保護しているが、有楽斎は家康が豊臣家に送り込んだスパイだとする説もある。

一富士二鷹三茄子

初夢で見ると縁起がいいものとされる、富士山茄子家康の好きなものである。晩年、駿府に隠居城を構えたのは富士山の眺めがいいから。は趣味が鷹狩りである事。茄子家康の無類の大好物で、天下を獲った男の愛する品と言うのが、一富士二鷹三茄子の由来である。

作品

史料
小説
テレビドラマ
テレビアニメ

関連項目


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