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日本航空123便墜落事故
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日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日、当時の日本航空123便・東京(羽田)発大阪(伊丹)行・ボーイング747 SR-100・登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山※に墜落した事故である。
死亡者数は乗員乗客524名中520名にのぼり、単独の航空機事故としては世界航空史上最悪である。死者の中には歌手の坂本九などの著名人も含まれていた。生存者は4名で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。また、この事故が航空業界のみならず社会全体に大きな衝撃を与えたことから、一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、19時00分大阪(伊丹)着のフライトプランだった。使用機体はボーイング747のJA8119、JA8119は同日その前に503便、504便、363便、366便の各定期便として飛行し、123便で5回目。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量だった。
乗務員は、高浜雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の3人のコックピットクルーと、客室乗務員(男性1人、女性11人)12人の計15人、乗客は509人だった。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった。
18時4分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊される。その際、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。そのため、エンジンと電気系統は無事なものの、油圧を使用しての操縦は不可能の状態に陥ってしまう。操縦は困難を極め、機体は迷走を続けるとともに上昇、降下を繰り返し、17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、降下手段としてランディング・ギア(着陸脚)を降ろした後、空気抵抗のためか、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス(緊急事態発生の際に自動的に流れ始め、予め録音してある男性の声で乗客にシートベルトの着用や安全姿勢を指示する音声)が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備えたのか、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全の姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、事故現場から発見された。
「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと食事したのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 津慶 しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」
123便は18時25分頃に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に受信される。直後に機長が無線でACCへ羽田へ戻りたいと告げ、ACCは了承、どちらに旋回するか尋ねると機長は右旋回を希望する。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。27分には機長から緊急事態が宣言され、その後123便を羽田へ誘導し続ける。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。28分、ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分、ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸するかと提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。33分頃から日航は123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下してるので後ほど呼び出すまで待機するよう求められ、日航は了承した。
40分、ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが返答は無かった。42分、123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信がし続けられる。そのため、ACCは交信が入る機に個別で指示し続けた。
45分、無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(YOK)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが羽田(APC)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。47分、123便は千葉の木更津へ誘導するよう求め、ACCから真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、操縦不能と返答がきた。その後、APCの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。48分、何故か無言で123便から機長の荒い呼吸音がACCに記録されている。49分、123便からの応答がこない為、日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分、123便から操縦不能と疲れ果てた声で無線が入ってくる。ACCとYOKが返答、YOKは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPCの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。54分、日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APCが羽田から55マイル(102km)北西で、熊谷から25マイル(46km)西と告げる。55分、APCから羽田と横田が緊急着陸準備を行っていると知らせ、123便から了解と返答が入る。しかし、その直後、APCが123便に対し、飛行計画を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPCとYOKが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分、YOKが123便に対し、貴機は横田から35マイル(65km)北西の地点におり、横田基地に最優先で着陸できると交信、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時点で既に123便は墜落していた。
衝撃音がした直後、機長は地上への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
ところが、管制官の「右旋回?左旋回?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。
ボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、すでに操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、更には副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。
18時24分35秒頃、コックピットのボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。直後に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士は「油圧」が異常に低下していることに気づく。26分、無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンク(迎え角)とるなそんなに」と怒鳴っている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。そして、僅か3分足らずの27分に、圧力の喪失を示すと思われる「オールロス」という航空機関士の音声が残されている。
そして同じころ客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空に降下させていった。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイトやダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が残っている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(壊れる)しました」と連絡※している。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを出そうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、電動で再度試み、着陸ギアが降ろされた。電動でギアが降ろされたことで右に大きく旋回しながら高度が下げられ、更には横揺れが縮小、又は一定に保たれ多少機体が安定した。
46分、機長が「これは駄目かも分からんね」との呟く様な独り言を残している。47分、この頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。49分頃には機首が39度も上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちた。その頃から機体の安定感が崩れ何度も失速を繰り返し、そのたびに最大出力「マックパワー」を指示する声が残っている。更に所々お互いを励まし合う声も記録されている。51分、依然続く失速を抑えるため、電動でフラップが出される。
54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね熊谷から25マイル西の地点であると告げられる。その直後55分頃、フラップを下げた途端、失速し、大きく機体は右にそれながら急降下を始める。彼らはすぐさまフラップを上げ、パワー出力を増やし機首を上げようとした。
3名の努力の甲斐も空しく、123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動、同20秒頃、機体は僅かに上昇しだしたが18時56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり18時56分30秒、高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーにも衝撃音が残されている。また、直前には機長ともう1名(誰かは不明)の最期の声が残されていた。墜落直前に機長が発した「もーだめだ」という声と衝撃音の後に録音は終了している。
衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。
123便の機影は墜落直前、18時56分02秒にレーダーから消失した。高度3000m以上は絶対監視されていることから、レーダー(アンテナは箱根山の山頂)にも写らない低空飛行、地上への墜落、のいずれかの事態が考えられたが、一部関係者は低空飛行をし続けている事を願い、日航、ACCなどが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルー達への励ましの言葉も伝えられたと言う。だが、20時過ぎになっても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、何処の空港や基地にも123便が着陸したとの情報も無く、墜落がほぼ確実なものとなった。たとえ低空飛行を続けていたとしても、燃料が底をつく頃と推測されたため、各機関は捜索準備に掛かった。レーダー消失地点等から捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され、捜索が開始された。
21時過ぎ、ヘリが※群馬県上野村山中で激しい山火事を発見した。そこが123便の墜落現場だった。
複雑な地形・険しい山地に雨という悪条件が重なり、ちょうど日暮れの時間帯であったことから、一部の新聞社などのヘリコプター、自衛隊機では墜落現場を確認できたが、正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターでは夜間の接近は困難であったために、地上からの救出に全力を挙げることとされたが、すでに夜間であったため、レスキュー隊が墜落現場に入ったのは翌朝になってからとなった。捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁やNHKの発表する「墜落現場」が二転三転して、おおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。
墜落の翌日、現場に一番早く到着したのは日の出とともに登った地元の消防団である。その後、午前10時ごろに長野県警レスキュー隊・機動隊・自衛隊が墜落現場に到着したが、墜落から15時間以上も経っての到着に非難が集まった。運送中の医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も到着が遅れた原因の一つになった。
墜落現場はまさに悲惨な状況で、墜落時の猛烈な衝撃と火災によってバラバラになった機体とともに犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、盛夏であったために遺体の腐敗の進行も早かった。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部分も少なくなく、また当時はDNA鑑定技術も確立されていなかったため身元の特定は困難を極めた。地元群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆け付け、猛暑・悪臭等の劣悪な環境の中で判別作業が進められたが、520人の犠牲者のうちほぼ五体揃った遺体として発見されたのは約200体程度。他は身体の一部(機長は歯のみ)や遺留品のみで識別され、身元が判別できないままの膨大な量の遺体片が残された。また、アメリカ人1名を含む2名の身元は遂に確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要した。
事故が明らかになった当初は、事故の大きさから生存者の存在はほぼ絶望視されていた。しかし救難活動が始まった8月13日午前11時ごろに相次いで4人の生存者が発見された。4人とも女性の乗客(うち1人は事故当日非番の日本航空客室乗務員)で、墜落時には比較的衝撃の度合いが軽く炎上を免れた機内客室後部座席に座っていた。彼女たちの証言から、墜落直後は機体後部付近では複数の人が生きていたが、時間の経過とともに受傷のため次々と絶命していく様子が窺われた。
事故直後、災害派遣命令が下されるよりも前に、航空自衛隊の百里基地から対領空侵犯措置のため待機していたF-4EJ戦闘機がスクランブル発進を行った。離陸後、要撃管制官からの指示で現場へ向かい墜落現場を発見、おおまかな位置を通知したほか、航空自衛隊のKV-107ヘリコプターも、夜間にもかかわらず現場で詳細な位置をTACANにより確認して報告した(同基地のRF-4偵察機は即応体制になかったため、発進は翌朝だった。)。
正式に災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行った。現場は険しい山中であったために車輌の進入やヘリコプターの着陸が容易ではなかった。遺体の収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の、上空でホバリング中の機体への生存者の収容作業は、救出活動を象徴する映像となった。
その他に、自衛隊はマンパワーや重機を活かして、遺留品の捜索、ヘリポートや簡易道路の建設などで大きな役割を果たしている。当時のメディアでは、先のヘリコプターの映像を除いて、自衛隊の支援は余り報じられず、むしろ自衛隊の出動が遅いと批判する声が上がっている。しかしながら、第一空挺団は政府の命令なしに独自の判断で出動、当時の貧弱な装備では非常に危険な夜間の降下を上申している(却下された)。さらに待機人員が通常よりやや少ない盆休みにもかからわず隊員は迅速に出動して凄惨な現場で活動しており、現場レベルでの尽力は評価されるべきものである。自衛隊組織ないしは政府機関相互の連携の問題として墜落現場の情報を有効に活用できなかった点が悔やまれる。
生存者の救出につながった独自出動だが、空挺団司令は「謀反の可能性あり」と左遷された。
墜落機の飛行状況は、在日アメリカ軍も把握していた。公開されたコックピットボイスレコーダーによれば、横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し緊急周波数121.5MHzで呼びかけていた("JAPAN AIR 123, this is Yokota approach on guard. if you hear me Squark 5423 and Ident." 日本航空123便、こちらは横田アプローチ。救援に当たっている。聞こえたらスコーク5423で位置発信せよ)。墜落場所もほぼ把握しており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ軍機C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。
その後、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、アメリカ軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加と政府の迅速な判断に課題を残した。なお警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われている。
この在日アメリカ軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明にはアメリカ軍の現場特定、救出活動の申し出はすべて誤報であったとして否定された。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を呼ぶ一因ともなった。なお、事故より10年後に、在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であったとして改めて発表されている。なお上記の内容は、長い間、表に出ることは無かったが、新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載されたり、上智大学文学部が英語の入試問題として、このC-130輸送機の操縦士の手記を載せたことから再び議論が高まったといえる。
当時放送されていた日本テレビの「ザ・トップテン」では番組を時折中断して、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時はまだ不確定)を報道していた。事故の一報をNHKや他局より先にキャッチしたフジテレビは、ニュース速報を流した直後の午後7時半頃からレギュラー番組をすべて休止し、露木茂アナ(当時)をメインとした報道特別番組を約10時間に渡り放送している。なお、同じフジテレビの逸見政孝アナ(当時)も123便に搭乗する予定であったが、妻の助言で直前に予約を取り消し、東海道新幹線に乗り換えていたため難を逃れている。その後もフジテレビは報道特別番組を流し続け、翌朝には中継に必要な機材を現場に運び上げ、生存者救出の映像を事故現場から生中継した。
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトカメラマンだった。カメラマンの間では今でも日航機事故の話題が何かとのぼる。日航機事故の報道・撮影をしたかどうかで、その後のカメラマン生活が変わったという声がある。
航空・鉄道事故調査委員会の前身、当時の航空事故調査委員会が結論づけた事故原因の要点は以下の通りである。
しかし、「航空事故調査委員会による結論」は、当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として、後部圧力隔壁破壊があった場合に想定される急減圧と断熱変化による室温低下などの現象が証言からは発生したことが窺えないという点が当時の日航乗員組合等により指摘されている。それによれば後部圧力隔壁が破壊された場合、一般的には急に機内の気圧が低下し、乗員・乗客が意識を失う可能性が高いとされている。しかし、同機では前述のように遺書を残したり機内を撮影した乗客がいることから、急減圧が起きていなかったのではないかと推測する人々もいる(2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落した事故では、与圧装置の故障によって操縦士が気を失ってしまったことが原因とされている)。
この矛盾の説明として、747型機のキャビン容積の大きさと推測破断面積から計算された時定数を表す減圧カーブが他の中・小型機(上記737やその後のタイ航空A300-600)の場合にくらべて緩やかであることと、強力な空調システムによる減圧の相殺が考えられている。つまり、減圧は発生したが中・小型機のように瞬間的に圧力を失うものではなく、断熱変化による水蒸気の発生・肺から息が出て喉につまるような現象も軽微・もしくは部分的な発生で、その後の気温低下もエンジンを利用した空調システムにより危機的状況にはならなかったというものである。事故機からキャビン内の空気が吐出した証拠として、事故発生時、瞬間的に前方に約1tの推力が働いた事がFDRに記録されているのを示す専門家も居る。この説明を考慮すると、“急減圧”があったかどうかを議論するには、その言葉を定義する前提が必要となる。
また、後部圧力隔壁破壊に疑問を持つ人の中にはフラッター現象や機体の構造的欠陥(2002年に、機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747型機が南シナ海海上で空中分解を起こして墜落している)などの他の原因を主張する専門家・ジャーナリストも多い。また、自衛隊の無人標的機やミサイルなどの他の飛行物体との衝突説や、機内爆弾説を主張するジャーナリストも存在する(なお、定期航空操縦の現場では、123便では急激な空気の流れ、ほこり、物体の飛散は見られていないことから、“急減圧”の事実は無いとして、再調査を求めている。それに替わる説として、「上部方向舵のフラッターによる破壊」が多くの事実と矛盾することのない原因であると推定している。「日本乗員組合連絡会議」への外部リンク「日航123便に急減圧はなかった」を参照)。
事故調査委員会の推定では、事故発生後の数分間は油圧を使った操縦が可能で、旋回したのち操縦不能となったとされている。羽田に戻ることを宣言した123便は、陸上を進むことになる右旋回を要求しているが、このとき左旋回をして海の方へ進路をとることができたとして、この判断を問題とする見解もある。一部掲示板等では、かかる意見を持つグループを海派、それ以外を便宜上山派などと称し、議論が繰り返されているが答えは出ていない。
事故が発生した8月12日はちょうどお盆の入りで夏休み中でもあったため、当機には故郷への帰省客や翌日に行われる甲子園球場での全国高等学校野球選手権大会に出場する学校の関係者、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)で開催されていた筑波科学万博や東京ディズニーランドなどから帰宅する人、海外からの観光客も多く搭乗していて、出張帰りのサラリーマンも含めほぼ満席の状態であった。その中には歌手の坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長(社長の死に阪神ナインはより一層奮起し優勝できたとも言われる)、在阪報道機関への犯人からの「終結宣言」がその日の夕刊に掲載されたグリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子といった多くの著名人も乗り合わせていたが他の乗客と共に帰らぬ人となってしまった。
一方、当便に搭乗予定だったが何らかの理由で難を逃れた著名人もいる。元宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたために搭乗に間に合わず、明石家さんまは搭乗する便を当便より一本早くしたため、前述の逸見政孝も直前で予約を取り消して東海道新幹線を利用したため、元子役タレントの宮脇康之は芸能界から干され黒服をやっていた当時、東京の出張から大阪へ帰ろうと当便に搭乗しようとしたが酔っ払っていて間に合わず、女優のいしだあゆみと浅野ゆう子も遅刻により当便に乗り損ね、それぞれ奇跡的に事故から免れた。
事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機が飛んでおり、日航機に乗ったか全日空機に乗ったかで生死を分ける結果となった。また、その日の同時間帯に限って羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレール羽田線が10分程度遅れたために、当便に乗り遅れ結果的に難を逃れた客もいた。(※事故当日のダイヤでは、18時大阪発羽田行きの日航機も飛んでいた。)
事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告が事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消された。 また事故の数年後、墜落したJA8119が大阪国際空港でしりもち事故を起こした際の機長や、JA8119の整備を担当していた整備員が自殺している。
以後数年間、日航を意図的に避ける動きも目立った。特に帰省ラッシュ時では、競合相手である全日空・東亜国内航空(当時)を利用する者が急増して、日本航空の業績は大幅に悪化する事態となった。また、もう1つの競合相手である東海道新幹線(と言うよりも鉄道全体)の利用客も増加した。特に、当時の阪神球団社長が事故死したこともあるが、プロ野球界では移動に飛行機を使う回数を12球団の多くで減らし、巨人が東京から広島への移動にも関わらず全員が新幹線で移動したこともあった。
この事故以降、JAL123便は翌日は欠航、14日から「JAL123」のままで運航が再開されたが、9月1日から応急措置として「133」に変更され、さらに同年10月以降は125便となり「JAL123」は欠番となった。旧日本航空と日本エアシステムの合併後は、1525便となって同ダイヤで運航が継続されていたが、2005年11月の運航ダイヤ以降、1525便は18:30発に変更された。
日本航空が支払った賠償金の総額は約600億円にのぼり、これが後々の日航の経営に重くのしかかる最大の原因となっている。
陸上自衛隊はこの事故で出動の際、メーカーから「野外入浴セット」の提供を受けた。これが隊員の疲労回復に役立つと判明したため正式導入されることとなった。
現在、墜落現場である「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日には遺族などによる慰霊登山などが行われている。しかし、事故発生から20年余り経過した現在では遺族の高齢化が進んでおり、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増えているのが実情である。
航空機事故の原因究明に不可欠なボイスレコーダーによる音声記録は本来非公開であるが、当機の音声記録が事故から15年経った2000年8月に突如報道番組にて公開された。当時の運輸省は1999年11月に事故関係資料を廃棄処分していたためどういった経緯で公開に至ったかは不明だが、コックピット内のやり取りが一般に明らかになったことで音声内の言葉の判読について航空事故調査委員会による報告書に疑問を呈する意見もある。またそれは現在でもいくつかのウェブサイト上で公開されている(外部リンク参照)。
事故から20年目に当たる2005年8月12日にJALウェイズの福岡発ホノルル行きのDC-10が離陸直後にエンジンから発火し、部品が市街地に落下するという事故が発生した(この事故原因はジェットエンジン内のタービンブレードの破損であり、各航空会社で何重もの整備が行われているものの、完全には発生を防げていない)。この日の午前中の慰霊行事で社長が二度と事故を起さない旨の挨拶をした直後に発生した事故で、更には2005年以降日本航空でのトラブルが多発したため、同事故の遺族をはじめ各方面から批判の声があがった。
2006年4月24日、日本航空は羽田空港整備地区に「安全啓発センター」を開設。このセンターで残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席)、飛行記録装置、コックピット音声記録装置など41点を展示している。一般にも公開しているが事前の申し込みが必要である。2006年7月10日からは犠牲者が機内で書いた実物2通を含む6通の遺書も展示されている。
またこの事件には数多くの陰謀論が存在する。主に「航空自衛隊による撃墜」「自衛隊演習機の衝突」「証拠隠滅のための救出活動を延期(生存者の殺害をはかったもの)」などがあげられる。事故原因を分析するウェブページや書籍のなかには、真偽が疑わしいページも含まれていることは留意すべきである。
この事故が社会的に与えた影響は大きく、この事故をテーマにした文学やマンガも数多い。代表例としては、事故後の航空会社を描いた山崎豊子の『沈まぬ太陽』、地元新聞社の苦悩を描いた横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』が挙げられる。小林泰三のSF小説『ΑΩ』も、事故が物語の発端となっている。ほかにも漫画では『金田一少年の事件簿』に日航機事故をモチーフとした殺人事件が、『海猿』では同様の原因で着水する事故が取り上げられている。
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