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盛岡市のデータ
日本
地方 東北地方
都道府県 岩手県 
団体コード 03201-8 
面積 886.47km²
総人口 300,638
(2006年2月1日現在)
隣接自治体 花巻市八幡平市
岩手郡雫石町滝沢村岩手町葛巻町
紫波郡紫波町矢巾町
下閉伊郡岩泉町川井村
市の木 カツラ 
市の花 カキツバタ 
市の鳥 セキレイ 
盛岡市役所
所在地 〒020-8530  岩手県
 盛岡市内丸12番2号
電話番号 019-651-4111(代表) 
外部リンク ウェブもりおか 
位置
岩手県庁のページに位置情報あり
特記事項 :

Template (ノート 解説) 日本の市町村pj

盛岡市(もりおかし)は、東北地方の北部、岩手県内陸部のほぼ中央に位置する都市で、同県の県庁所在地である。

国から特例市に指定されている。

概要

平安時代、桓武天皇の命により陸奥国国府多賀城」と同規模の「志波城」が置かれ、古代陸奥国最前線の治府となる。在郷豪族安倍氏以後、幾度もの戦乱により清原氏奥州藤原氏による独立的自治を経て鎌倉幕府の統治下となる。源頼朝の指揮に拠り多くの御家人が配置され「奥州工藤氏(栗谷川氏)」が治めた。南北朝期には両統群雄割拠する中、甲斐源氏の流れを汲む南部氏が進出を果たし、都市としての盛岡の礎となる。先に目代として福士氏が「不来方城」を設け、これが後の盛岡城の基となった。「三日月の円くなるまで南部領」と広大無比を歌われた南部藩(後の盛岡藩)の城下町として江戸時代初めに開かれ、以後およそ400年の歴史を刻む。

東北新幹線東北自動車道の開通以後、交通の結節点としての地位が高まり、北東北の拠点として栄えて今日に至る。

市名の由来

「盛岡」とは、連歌「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山」に由来する吉祥地名。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つ。 ときの南部藩主に旧名「不来方」の文字が忌み嫌われ、「森が岡」を経て「盛岡」に落ち着いたと伝えられる。

市の呼び名

古名より不来方(こずかた)、盛岡を漢文調に読み雅号として杜陵(とりょう)とも。石川啄木はその作品の中で「美しい追憶の都」、宮沢賢治はエスペラント風に「モリーオ市」と記した。 「杜と水の都」「みちのくの小京都」とも呼ばれる。

地理

thumb|256px|玉山村を編入合併する前の盛岡市、県内位置図

気候

気候は四季が明確で、桜の開花は東京にほぼ一ヶ月遅れ、満開時がゴールデンウィークに重なる傾向がある。
夏は真夏日が続くがほぼひと月で終わり、急激に秋が訪れる。昼夜の寒暖差が激しい典型的な盆地性だが、積雪量は東北地方において比較的少ない。また、市内でも標高差など地理条件により気温差が顕著である。
殊に玉山区藪川地区は例外的で、岩手県川井村区界、青森県酸ヶ湯と並んで、本州でも局地的に寒冷な場所のひとつとされる。

四方の山脈

岩手県の最高峰岩手山を北西に、駒ケ岳を西に、内陸部と三陸海岸とを隔てる北上山地の主峰早池峰山を南東に、円錐形の独立峰姫神山を北東に仰ぐ。
盛岡市は、これら東西の山並みを縫って流れる東北最長の大河北上川流域に沿う北上盆地の北端に位置し、南へ向かって平野部が開け、河岸段丘が発達している。南に南昌山東根山を配し、市街の周縁部に「岩山」「愛宕山」「鑪(たたら)山」「蝶ヶ森」「飯岡山」「黒石山」「神庭山」など低い里山・丘陵地が入り組み、良好な緑地を形成するとともに、総じて街のランドマークとなっている。

三つの河川

盛岡の北から南へ貫く北上川(源泉は御堂観世音<天台宗北上山新通法寺正覚院>境内の「弓弭の泉」)に、西から雫石川、東から中津川が市の中心部で合流し、南方の平野部へ流れて穀倉地帯を形成している。
それぞれの河川上流にはダムが作られ、三方に湖をたたえる。
また簗川(やながわ)、米内川(よないがわ)、木賊川(とくさがわ)、諸葛川(もろくずがわ)、南川(みなみかわ)などの小河川が市内を流れる。

四つの湖沼

北上川の上流に「南部片富士湖(四十四田ダム)」、中津川の上流に「綱取ダム」、雫石川の上流に「御所湖(御所ダム」)があり、三大河川の調整を図っている。
また江戸時代に灌漑用として「上田堤」が築かれ、現在は「高松の池」として市民の憩いの場となっている。

交通

国道4号東北自動車道東北新幹線などの主要幹線道路や東北本線が、北上川に沿って建設されている。また、盛岡駅を基点に田沢湖線山田線花輪線いわて銀河鉄道が走り、盛岡市を中心に岩手県道が放射状に伸びている。
東西に国道106号線で太平洋沿岸の宮古市、国道46号線で日本海沿岸の秋田市とほぼ直線で結ばれる。

市街地

中心部

市の中心部には城下町開府以来の区画が残っており、盛岡城内丸跡を中心に官庁街が形成され、岩手県庁、盛岡市役所、国・県の盛岡地区合同庁舎、盛岡東警察署、盛岡消防本部、岩手県警察本部、盛岡地方裁判所などが集中している。また岩手銀行東北銀行北日本銀行の各本店、岩手県民会館や岩手県公会堂、岩手日報社、テレビ岩手の本社も位置する。
中津川を挟んだ旧城下町に中心業務地区が展開し、古くから、中津川以北を「河北」と呼ぶ。

北部

中心部から北部にかけては、岩手医科大学岩手大学等の教育施設が連なり、広範囲に文教地区を形成しており、県営のスポーツ競技施設(総合運動公園、スケート場、武道館、体育館)などもある。
その外周部には、独立行政法人東北農業研究センターをはじめ、隣接する滝沢村には岩手県立大学盛岡大学が立地するなど、国と県の農業研究機関や学校が集中している。また四十四田ダム湖畔には山林部を開いた松園ニュータウンと呼ばれる大規模な宅地があり、さらに姫神山を中心とする玉山区(旧玉山村)に到る。

東部

城下町開府以来、「河南」と呼ばれる中津川以南のこの地域は、商業街として発達した肴町、門前町として発達した八幡町を中心に、古くから賑わうところである。 旧盛岡銀行本店、旧第九十国立銀行、盛岡信用金庫本店、旧小野組跡、南昌荘など歴史的価値の高い建造物を有し、江戸から近世にかけての歴史を知る上で貴重なエリアである。 東部の丘陵地帯には、盛岡市動物公園(動物園)や岩山公園、岩山漆芸美術館、盛岡競馬場などがあり、行楽地となっている。

西部

西部は、平安時代に安倍氏や奥州工藤氏(栗谷川氏)が拠点としたエリアであり、安倍館遺跡、里館遺跡などが点在する。外周部には住宅地が広がり、2006年には盛岡西警察署盛岡西消防署が所在する青山通り沿いに青山駅が開業。国道46号盛岡西バイパスの接続により店舗等の進出が増えており、秋田県からの往来が顕著である。
御所湖附近の繋温泉は「盛岡の奥座敷」とも呼ばれ、盛岡手づくり村をはじめとした観光拠点となっている。

南部

南部は平安時代に「志波城」が開かれ、この時期の埋蔵文化財が多い。長らく優良な穀倉地帯であったが、「盛岡流通センター」「貨物ターミナル」が早い時期に置かれた。盛岡駅西口開発地区の延長上に都市再生機構などによって都心を補完する「盛岡南新都市(ゆいとぴあ盛南)」整備が進められ、雫石川以南に急速な開発が進行中である。

玉山区

2006年(平成18)1月10日に、同市北部に隣接した岩手郡玉山村と合併し、旧玉山村地域は地域自治区、盛岡市玉山区となった。

歴史

旧石器時代 - 縄文時代 - 弥生時代

冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は、専ら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、国内最大級の縄文式土器が発掘されている一方、弥生式土器の発掘例は殆どない。

「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に12000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。 岩手県指定遺跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴式住居跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における「爪形文土器」他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「ヒスイ」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。

南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。

平安時代

盛岡の起源は、延暦22年(803年:平安時代)、桓武天皇の東北進攻政策にあたり、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって陸奥国最北の城柵「志波城」(現在の盛岡市中太田方八丁附近)が造営され、一帯が律令体制下に置かれたことに遡る。その規模は外郭で鎮守府「胆沢城」、政庁規模で陸奥国府「多賀城」をも超え、当時の行政府として重要視されていたと見られる。さらに一帯では、朝廷による東北経営のための移住政策が進められており、上総千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。
しかしそれ以前からも、既に蝦夷と呼ばれる強大な土豪勢力があった。「上田蝦夷森古墳群」「太田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」「蕨手刀」からは、古くからここに高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測される。

朝廷と蝦夷の勢力対立・融合の中で、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)、城柵を厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)に構え、これは支配地最北の砦であったと考えられる。

安倍頼時・貞任は、日高見国とも呼ばれた北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る源義家らの計略により攻撃を受けた、現在の盛岡で敗れて九州大宰府などに配流(松浦党の始祖と伝えられる)、または戦死した。これを前九年の役と呼ぶ。さらにこの時、安倍一族の女性は捕らえられ、出羽国から源軍に加勢した敵方の清原氏に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則の支配下に置かれた。

陸奥話記」は、この頃既に不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主であったと伝える。後に清原氏もまた後三年の役で内紛により滅ぶと、この地は清原氏を名乗るも藤原氏の血統にあり、さらに平家出身の母を持ち安倍貞任の甥にあたる清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなった。これが平泉奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。

鎌倉時代から室町時代まで

産金による巨万の富を背景に、仏教による平和統治を目指した奥州藤原氏であったが、源義経を庇護したことで、源頼朝を頭領とする鎌倉幕府により追捕の対象となる。源頼朝は厨川に到り、前九年の役における父祖の先例にならい藤原泰衡一族「樋爪俊衡」の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った伊豆国神奈川県)地頭「工藤氏」が統治を始めた。工藤小次郎行光は嫗戸柵跡に「厨川(栗谷川)城」を定め、厨川柵跡には安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現:曹洞宗「巌鷲山天昌寺」)を創建、巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。

この頃、城下町・盛岡を開く南部氏も同様、奥州藤原氏征討の功によって鎌倉幕府から奥州糠部郷を拝領していたと伝える。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国山梨県)巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たして以後、一度の領地替えもなく、約800年間に亘って奥州北部の掌握を遂げたと考えられる。

工藤氏はのちに「厨川(栗谷川)氏」を名乗り、南部氏と対立しながらも、福士氏をはじめ周囲の有力武門である斯波氏葛西氏と縁戚関係を組みながら南部家臣下に組み込まれていった。またその末裔「栗谷川仁右衛門」は江戸末期に山林奉行となり、「諸木植立秘伝抄(山林雑記)」を著して食糧自給や林政の重要性を説いた。弘化3年(1846年)以後、藩の命を受け製紙・養蚕など殖産政策にも貢献した。幕末期、戊辰戦争の責を負い切腹した家老「楢山佐渡」は、母方が栗谷川家の出である。

南北朝動乱期、現在の盛岡周辺でも有力氏族が割拠し、北朝の足利氏・斯波氏・稗貫氏一族に対し南朝の北畠氏・南部氏・葛西氏一族の対立が続いた。この斯波氏とは、盛岡南郊の斯波郡(紫波郡)高水寺城(現在の城山公園)に発する足利氏の一派で、源義家の末裔に当たる。建武2年(1335年)、足利尊氏が陸奥国国府と南部氏を制えるため、独自に奥州探題として足利家長を下向させたことに発する一族であり、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏に比肩する唯一の名族であった。そのため、一族の分派は「御所」の尊称で呼ばれた。これが御所湖の名の由来である。

後に室町幕府が開かれると、有力守護家として将軍を補佐する三管領に着任、その地位は事実上筆頭であり、貞治元年(1362年)に初代管領・斯波義将が任命された。当地での両朝の和議は「上田城」(現在の榊山稲荷神社)でなされたと伝えられる。

南部氏は南北朝時代に入って、「福士氏」を目代とし不来方(現在の盛岡)を支配する。福士氏は「甲州衆」と呼ばれる、南部家初代に従い甲斐国からやってきた家系である。福士伊勢入道慶善と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。大石寺文書には、建武元年(1334年)、日道上人の弟・新田孫五郎道章が陸奥国府より国宣を受け、仁王郷の三分の二を後藤氏へ授ける旨示しているが、南條氏がそれを認めず、という記述が残っている。これは波木井南部氏が甲斐国地頭時代から日蓮宗と深い関わりがあった影響とも見られる。南條氏は福士氏の祖との説もある。

南部家盛岡移転の契機は、南部家家臣大浦為信津軽氏の祖)が秘密裏に羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得るという謀反によって、南部氏が津軽領(青森県西部)を失ったためである。結果、領土の中央部に城下町建設を計画する必要が生まれ、南部氏は新しい城下町の建設を決めた。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。

「都市としての盛岡」の礎を築いた南部氏三戸南部氏)は、はじめ三戸(現在の青森県三戸郡)に居城を構えていた。加賀藩前田利家らの仲介により豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を討伐し九戸城を福岡城 と改名、その後は浅野長政蒲生氏郷の推挙により、不来方を新たな本拠に決定。天正18年(1588年)に高水寺城を「郡山城」に改め居を構えながら、信直、利直、重直の三代にわたり築城する。以後、三戸南部氏は盛岡南部氏と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(後の「遠野南部氏」、元の「波木井南部氏」)を配下に収め、南部家一党の宗家となる。

この頃既に南部領には、領内の豊富な砂金を目当てに近江商人が進出し、北上川の河港・日詰郡山駅を拠点として盛岡城下町進出への足がかりとしていた。

江戸時代

南部家第26代信直は、まず城下町の建設に当たり、甲州衆をはじめとして多くの家臣の盛岡への移転を進めた。また旧城下町から町人移転を進め「三戸町」(現在の中央通三丁目)と命名。定期市を立て賑わいの核とした。

城から仰ぐ岩手・早池峰・姫神の「南部三山」に大権現を勧請。元和3年(1617年)には鬼門の方角に「宝珠盛岡山永福寺(真言宗)」を、また別に城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽寺(臨済宗)」を建立した。この二ヶ寺に加え、京都にならい北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、東禅寺(臨済宗)、教浄寺(時宗)、鳩峰山報恩寺(臨済宗)を特に「盛岡五山(北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、住吉神社などの神社を配した。元禄16年には、越前・金剛院の僧「空念」の指摘に拠り、南に「南部の繁昌」を願い毒ケ森を「南昌山」と改名したと伝えられる。「五の字割」と呼ばれる複雑に入り組んだ町割りで外敵を防ぎ、武家屋敷を「小路」、町人街を「町」と表記した盛岡城下町は、総じて軍事よりも宗教的安定を求めた設計であった。

物流は北上川舟運による輸送が主流であり、石巻を経由して江戸・上方と結ばれていたが、西には秋田街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。

慶長4年(1599年)、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米は悉く御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。 この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受け、今日に至る。

南部藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。それは開府にあたり招聘した近江商人をはじめとする領外商人進出による影響も大きい。彼らのうち有力な者は現在の滋賀県高島郡大溝周辺から進出した村井・小野ほか一族で、現在の大阪府から平野杜氏を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人の他、山城・大坂・伊勢・常陸など主に関西から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。殊に京都からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれ、近代まで盛岡の主要商店街であった。また上方出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町、津軽町(現在の津志田)、岩手町・久慈町(現在の材木町)など、城下近郊からの移住者による町も生まれた。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。

万治2年(1659年)、茶道に造詣の深い第28代南部藩主・重直公は、京都より釜師「小泉仁左衛門」を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。

第29代南部藩主・重直公は「不来方」の名を忌み嫌い、「盛り上がり栄える岡」という願いを込めた「盛岡」へと改称した。これは、元禄4年(1691年)、重信公と、城下の鬼門に当たる真言密教の鎮護寺「宝珠盛岡山永福寺」の第四十二世・清珊頂相法印との連歌から生まれたものだと言われている。「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名であるという理由から、文化14年(1817年)に南部藩も改称し、盛岡は盛岡藩の城下町となった。

盛岡へは、寛永10年(1633年)に黒田騒動筑前国福岡藩家老・栗山大膳が、寛永12年(1635年)に朝鮮通信使を巡る外交問題で対馬藩長崎県)から「方長老」(規伯玄方)が、遠く九州からお預けの身となったが、当時の藩主は茶の湯漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが元来の地場工芸南部鉄器や菓子・作庭などに影響し、芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。

盛岡城で南部氏による統治が17代を数えた時、明治維新を迎える。奥羽越列藩同盟の抵抗勢力として薩長(明治政府)に抗った盛岡藩は、会津藩仙台藩とともに、薩長に寝返った秋田藩に最後まで抗戦したが、主席家老楢山佐渡は戦の責を負って切腹し、城郭はことごとく破却、民間に払い下げられた。

盛岡藩は以後、賊軍の汚名を付される事となる。更に、1808年には蝦夷地防衛の過重負担が課せられ、盛岡藩とは敵対関係にあった旧仙台藩の支藩・白石藩へ南部家が転封されるなど、徹底した制裁処分に苦しめられた。その後藩主の盛岡復帰請願に対しさらに上納金を課せられるなど、薩長による締め付けは極限を極めた。これ以後、薩長に敵対する盛岡には文武で身を立てる風土が生まれ、明治以降に多くの軍人・政治家を輩出する契機となる。

明治維新

明治3年(1870年)、他に先駆けた廃藩置県により盛岡藩は盛岡県となる。しかし翌年、藩制の弱体化を狙う明治政府は、他の旧藩領地を分割し、盛岡県に統合して岩手県とした。岩手の名は、盛岡が属していた岩手郡から取られたものである。

生活実態にそぐわない県域は、住民意志の統一性低下を招くものであり、今日なお多くの問題を残している。青森県三八上北地方・秋田県花輪地方などの旧盛岡藩領が、現在に到るまで住民意識が盛岡市と深く結びついているのはこのためである。

こうした動乱の中、明治5年(1875年)、盛岡と京都を拠点に全国規模の両替商として発展、為替方として新政府樹立に資金面で貢献した近江商人系の「小野組」は、政府により「三井組」(現在の三井グループ)と共同で「三井小野組合銀行」の設立を命じられる。同行は小野組破産、三井組の独立金融機関設立(現在の三井住友フィナンシャルグループ)に伴い、両者の手を離れ渋沢栄一の主唱のもと第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)となった。

同時期、盛岡藩御用商人・鴻池伊助店を経て「小野組糸店」に奉公、明治4年(1874年)「築地製糸場」を東京に設けた古河市兵衛が、政府金融方針の急変による小野組本店破産後に鉱山経営を始めた。これが古河鉱山、古河財閥(古河グループ)の起源で、現在の古河電気工業富士電機富士通ニフティへ連なる。そのうちの古河銀行は後の昭和6年、小野組同様に当時の第一銀行、現在のみずほ銀行に引き継がれた。明治8年(1882年)、盛岡では南部家による疲弊した旧藩士救済のための開墾事業が開始され、当時有力産業であった生糸生産のための桑田経営がなされ、今日までその企業系譜が連なる。明治11年(1878年)には、士族の銀行として「国立第九十銀行」が設立、明治後期には旧呉服町を中心に金融街が誕生する。

明治22年(1889年)4月1日、南岩手郡から分立、市制施行により盛岡市が生まれ、盛岡城内丸跡に県庁、市役所、裁判所、警察署、消防署、合同庁舎が集積、官庁街が形成された。また後の昭和初期に、藩主の御膳に野菜を供した盛岡城御菜園跡が土地区画整理により開発され、現在の中心街(大通・菜園)が形成された。
明治29年(1896年)には盛岡銀行(現・岩手銀行中ノ橋支店)、翌年には「私立岩手病院(現・岩手医科大学附属病院)」が設立されるなど、維新後の荒廃から一転、勢い強い時代を迎える。

明治憲法発布から第二次大戦まで

1890年の東北本線盛岡駅開通以後、盛岡は鉄道と深い関わりを持つこととなる。1891年(明治24年)の小岩井農場小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道会社社長の小野義真、鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により日本国有鉄道が成立する経緯には、盛岡出身で当時鉄道を管掌する逓信大臣であった原敬の影響が大きい。後世、盛岡には国鉄盛岡工場・鉄道管理局が置かれ、鉄道を主軸とする地域経済の活発化に多大な影響を及ぼした。原敬は旧盛岡藩家老職の家に生まれた出自を背景に、明治維新で辛酸を嘗めた盛岡をはじめとする東北地方の復権に貢献したか、皮肉にも東京駅で銃弾に倒れた。東京駅を設計したのは、盛岡市出身の葛西萬司と、師の辰野金吾であった。

大正期にかけ、盛岡には「陸軍騎兵第三旅団23連隊」が置かれ、秩父宮雍仁親王が入隊した。併せて「工兵第八大隊(現在の国立病院機構盛岡病院の地)」「陸軍予備士官学校(現在の森永乳業盛岡工場の地)」が置かれ、一帯は「観武ヶ原(みたけがはら)」練兵場となる。この命名は、大正天皇が行幸観閲した折に命名されたと伝えられる。昭和に入り一帯は開拓され農地となり、広大な牧野を背景に「岩手県営体育館」をはじめ「岩手県警察学校」が整備される。また、「岩手国体」開催に伴う「岩手県営総合運動公園」整備によって、みたけ地区は碁盤目状に整備されて飛躍的な宅地化を遂げ、「岩手県営スケート場」「岩手県営武道館」など県立スポーツ施設が集中的に整備される契機となった。

第二次大戦後

現在まで

  • 1982年 - 東北新幹線「盛岡~大宮」間が暫定開通。
  • 1984年 - 非核平和都市を宣言。
  • 1985年 - カナダのビクトリア市と姉妹都市の盟約を締結。
  • 1991年 - 東北新幹線「盛岡~東京」間の整備完了。
  • 1992年 - 紫波郡都南村を編入合併。
  • 1993年 - アルペンスキー世界選手権盛岡・雫石大会を開催。
  • 1997年 - 城下もりおか400年記念事業を展開。
  • 2002年 - 旧盛岡藩士をモデルにした小説「壬生義士伝」がテレビ東京でドラマ化、平均視聴率9.1%のヒット作に。後に映画化もされ、注目される。
  • 2005年(平成17年) - 民間レベルの交流により、「在盛岡フィリピン共和国名誉領事館」が盛岡市大通に開設、東北全県を管轄。
  • 2006年(平成18年)1月10日 - 岩手郡玉山村編入合併し、旧村域は「玉山区」、旧役場は玉山分庁舎「玉山総合事務所」となった。同年2月、盛岡市長により「盛岡ブランド宣言」が行われる。

花と緑のまちづくり事業により、市長の提案による「ハンギングバスケット運動」の推進、「盛岡ブランド」創出に向けた取り組みや、城下町に由来する旧町名の復活・活用に向けて市民レベルでの動きがある。2008年4月までに中核市への移行を目指し、保健所の行政事務移譲に向けて、平成18年に岩手県競馬組合より競馬会館を取得。 また、岩手県が提唱する合併モデルに基づき、矢巾町・雫石町・紫波町・滝沢村との広域合併を視野に調整が進められている。

経済

県庁所在地として行政機関が集まることから、これに関連した産業が集まっており、第一次産業を基幹とする岩手県にありながら、第三次産業に従事する者の割合が特に高い。

1982年東北新幹線が盛岡まで開通したことにより、北東北三県の交通・経済・観光の拠点としての要素が高まる。さらに1997年秋田新幹線の開通、2002年の東北新幹線の盛岡以北延伸(八戸駅設置)によって、一時はこの影響による拠点性の低下が危惧された。しかし逆に、ストロー現象によってその地理的優位性が高まり、事業所が盛岡へ統合される例が見られる。

近年、企業の東北地方北部進出の足がかりとして、味の素カルピスカゴメキッコーマンメルシャンキリンビールアサヒ飲料日本ミルクコミュニティ雪印乳業日清医療食品ニチレイフーズ明治屋商事など食品事業系を中心に岩手・青森・秋田を統括する「北東北支店(営業所)」が数多く置かれている。

また2005年、イオングループにより盛岡市に本社を置く「イオンスーパーセンター株式会社」が設立された。

盛岡にあって北東北を管轄する企業

アサツーディ・ケイ日本テレコムボーダフォン三菱電機ビルテクノサービスNECインフロンティアニッセイ同和損害保険サンウェーブ三和シャッターマニュライフ生命三菱電機住環境システムズ住商オートリース住信・松下フィナンシャルサービス国際航業日立建機東芝情報機器学習研究社

金融機関

盛岡市に本店を置く銀行

岩手銀行東北銀行北日本銀行盛岡信用金庫

盛岡市に支店を置く銀行

みずほ銀行国民生活金融公庫中小企業金融公庫青森銀行秋田銀行七十七銀行

盛岡は県庁所在地には珍しく、みずほ銀行の他は都市銀行の進出が遅れていたが、2005年三井住友銀行東京三菱銀行(現「三菱東京UFJ銀行」)が相次いで法人営業所を盛岡に開設。UFJ銀行(現・三菱東京UFJ銀行)も「ローン推進室」を設置した。

マスメディア

新聞社
テレビ局、および AM局
FM局
コミュニティFM

行政

行政機構

  • 市長:谷藤裕明(たにふじ ひろあき・2003年9月2日就任)

行政区域の変遷(市町村制施行以後)

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制が施行される。
    • 仁王村、志家村、東中野村の一部、新庄村の一部、加賀野村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部、上田村の一部、仙北町村の一部が合併して市制施行し、盛岡市となる。
    • 上米内村、下米内村、上田村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部が合併し、南岩手郡米内村が成立。
    • 下厨川村、上厨川村、土淵村、平賀新田が合併し、南岩手郡厨川村が成立。
    • 旧・浅岸村、加賀野村の一部、新庄村の一部が合併し、南岩手郡浅岸村が成立。
    • 門村、東安庭村、東中野村の一部が合併し、南岩手郡中野村が成立。
    • 旧・本宮村、向中野村、下鹿妻村、仙北町村の一部が合併し、南岩手郡本宮村が成立。
    • 旧・梁川村、川目村、砂子沢村、根田茂村が合併し、南岩手郡梁川村が成立。
    • 上太田村、中太田村、下太田村、上鹿妻村、猪去村が合併し、南岩手郡太田村が成立。
    • 上飯岡村、下飯岡村、飯岡新田、永井村、湯沢村、羽場村が合併し、紫波郡飯岡村が成立。
    • 東見前村、西見前村、三本柳村、津志田村が合併し、紫波郡見前村が成立。
    • 旧・乙部村、黒川村、手代森村、大ヶ生村が合併し、紫波郡乙部村が成立。
  • 1896年(明治29年)3月29日 - 南岩手郡と北岩手郡が合併し、岩手郡となる。
  • 1913年(大正2年)6月10日 - 厨川村の一部を編入する。
  • 1928年(昭和3年)4月1日 - 米内村を編入する。
  • 1940年(昭和15年)1月1日 - 厨川村を編入する。
  • 1941年(昭和16年)4月10日 - 浅岸村、中野村、本宮村を編入する。
  • 1955年(昭和30年)
    • 2月1日 - 梁川村を編入する。岩手郡玉山村の一部、同郡滝沢村の一部を編入する。
    • 4月1日 - 太田村を編入する。
      • 同日 - 飯岡村、見前村、乙部村が合併し、紫波郡都南村となる。
    • 10月1日 - 岩手郡雫石町の一部(現在の盛岡市繋地区)を編入する。
  • 1961年(昭和36年)2月1日 - 盛岡市の一部が玉山村へ編入される。
  • 1992年(平成4年)4月1日 - 都南村を編入する。
  • 2006年(平成18年)1月10日 - 玉山村を編入する。

旧玉山村の沿革は「玉山区」の項を参照のこと。

立法

国会議員

衆議院選挙区は紫波町矢巾町とともに岩手1区となり、参議院選挙区は岩手県全体で1区を占める。

岩手県議会議員

岩手県議会では盛岡市の定数は10名となっている。2003年の選挙ではプロレスラーのザ・グレート・サスケが当選し、全国的に話題となった。

市議会

姉妹都市・友好都市

海外

観光

岩手県の名の由来とされる「鬼の手形」がある「三ツ石神社」をはじめ、城下町としての歴史を伝える盛岡城趾(岩手公園、国指定特別史跡)、藩政時代の雰囲気を伝える上ノ橋擬宝珠(国指定特別美術工芸品)、報恩寺五百羅漢、旧南部家別邸及び庭園(御薬園跡)などの名所旧跡がある。また、明治期の古い銀行建築が遺されており、「岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店)」「盛岡信用金庫本店」が知られる。市内には、「酒買地蔵尊」「豆腐買地蔵尊」「おもかげ地蔵尊」など、特徴的な由来を持つ地蔵尊がある。

宮沢賢治石川啄木などが青春時代を過ごした町であり、優れた人材を数多く輩出していることから、先人に関する石碑や施設も多い(「もりおか啄木賢治青春館」「盛岡市先人記念館」)。

春には、高松公園日本さくら名所100選)や盛岡裁判所前の石割桜(国指定特別天然記念物)が先駆け、続いて盛岡市米内浄水場の枝垂桜が見頃を迎える。秋には「一ノ倉庭園(旧阿部浩邸)」の紅葉が知られる。

市内中心部を流れる中津川北上川支流)は、内陸にありながら秋にはが遡上する川として知られる。

陸中海岸国立公園浄土ヶ浜宮古市)など岩手県東部、小岩井農場雫石町)など岩手県西部、また八幡平安比高原などへの観光拠点。

盛岡冷麺盛岡じゃじゃ麺わんこそばなどの類が有名。南部杜氏の本場であり、酒どころである。三陸海岸(陸中海岸)を後背地とするため、寿司の名店が多いことでも知られる。方長老が製法を伝えたと言う「黄精飴」や南部せんべいくるみゆべし等、この地域独特な菓子類が多く見られる。

市内西部には、盛岡の奥座敷と呼ばれる繋(つなぎ)温泉があるほか、周辺地域に「網張温泉」、「国見温泉」、「鶯宿温泉」などがあり、泉質も多様。

毎年8月上旬には東北五大祭り「盛岡さんさ踊り」が開催され、にぎわいを見せる。

教育

公教育史

  • 寛永13年(1636)、南部藩第3代藩主重直が盛岡城への「御新丸」建設に着手。
  • 寛永18年(1641)、盛岡城御新丸完成。
  • 寛文8年(1668)、南部藩第5代藩主行信が御新丸に「御稽古場」開設。武道の礎とする。
  • 明和8年(1771)、南部藩第9代藩主利雄、御稽古場を「武芸稽古場」として日影門外小路に移設。
  • 天保11(1840)、南部藩第13代藩主利済が武芸稽古場を基に藩校「明義堂」開校。儒学者・下田三蔵を招聘。
  • 安政元年(1854)、南部家御薬園(現・盛岡市中央公民館)を明義堂の医学・経学教場とする。
  • 慶応2(1866)、南部藩第15代藩主利剛が明義堂を「作人館」と改称。修文所、昭武場、医学所に再編。
  • 明治元(1868)、作人館が戊辰戦争により休校。
  • 明治3年(1870)、作人館に洋学所「日新堂」を加えて再開。「盛岡県学校」に再編。
  • 明治5年(1872)、学制発布により一時閉鎖を余儀なくされる。
  • 明治6年(1873)、修文所跡地に「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」(現・仁王小学校)開校。同年、「盛岡小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治7年(1874)、「鍛冶町小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治8年(1875)、「仁王小学」、「公立仁王学校」と相次いで改称。
  • 明治9年(1876)、「盛岡師範学校」(現・岩手大学教育学部)設立。仁王学校にて「天覧授業」が行われ、明治天皇以下、岩倉具視・木戸孝允・大隅重信をはじめ文武百官が来盛。
  • 明治10年(1877)、「盛岡師範学校附属小学校」設立。
  • 明治12年(1879)、外山牧場獣医学舎(現・岩手県立盛岡農業高等学校)設立。
  • 明治13年(1880)、内丸に「公立岩手中学校」(現岩手県立盛岡第一高等学校)設立
  • 明治20年(1887)、「公立仁王学校」が「仁王尋常小学校」と改称。
  • 明治26年(1893)、「盛岡第二尋常小学校(旧盛岡小)」と「盛岡第三尋常小学校(旧鍛冶町小)」を統合して、「城南尋常小学校」が現在の「盛岡市立杜陵小学校」の地に開校。
  • 明治30年(1897)、内丸に「岩手県実業学校」(現・岩手県立盛岡工業高等学校)開校。「岩手県尋常中学校」が「岩手県立盛岡尋常中学校」へ改称。「旧鍛冶町小学校」校舎にて「私立盛岡商業学校」(現・岩手県立盛岡商業高等学校)開校。盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)内に「盛岡市立高等女学校」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)開校。
  • 明治32年(1899)、「岩手県立盛岡尋常中学校」が「岩手県盛岡中学校」へ改称。
  • 明治34年(1901)、「岩手県盛岡中学校」が「岩手県立盛岡中学校」と改称。「外山牧場獣医学舎」が「岩手県立農学校」へ改組。
  • 明治35年(1902)、「盛岡市立高等女学校」が「岩手県立高等女学校」へ再編。
  • 明治36年(1903)、上田三小路に「盛岡高等農林学校」(現・岩手大学農学部)開校。
  • 明治39年(1906)、仁王尋常小学校に高等科を併置し,仁王尋常高等小学校と改称。
  • 明治41年(1908)、工兵・騎兵旅団の盛岡移転、盛岡停車場設立による人口増に対応するため「桜城尋常小学校」設立。「仁王尋常小学校」他から分離。内丸に「武徳殿」建設。
  • 明治44年(1911)、「岩手県立高等女学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」と改称。
  • 大正2年(1913)、「仁王尋常小学校」跡地が「盛岡市立商業学校」校舎となる。
  • 大正9年(1920)、「盛岡実践女学校」(現・盛岡市立高等学校のルーツ)、盛岡尋常高等小学校分教場(現・杜陵小)にて開校。
  • 大正12年(1923)、「岩手県女子師範学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」に併設開校。
  • 大正13年(1924)、「私立盛岡夜間中学」(現・岩手県立杜陵高等学校)、岩手県立図書館で授業開始、同年設置認可。
  • 大正14年(1925)、「盛岡実践女学校」が「盛岡女子商業学校」と改称。
  • 大正15年(1926)、盛岡城御新丸跡に「岩手県女子師範学校附属小学校」(現岩手大学教育学部附属小学校)が開校。師範学校の上田移転により「仁王尋常高等小学校」が「盛岡師範学校附属小学校」の看板を併立する状態が昭和前期まで続く。
  • 昭和15年(1940)、「盛岡市立第一高等女学校」、「盛岡国民学校」内に創設。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業学校」と改称。
  • 昭和21年(1946)、「岩手県立盛岡高等女学校」」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)に「岩手県立女子専門学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)が併設開校。
  • 昭和22年(1947)、仁王小学校に「仁王中学校」併設。
  • 昭和23年(1948)、学制改革。「盛岡市立第一高等女学校」が「盛岡市立女子高等学校」と改称。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業高等学校」と改称。「岩手県立盛岡高等女学校」が「岩手県立盛岡第二高等学校」へ改称。「盛岡第一高等学校夜間定時制雫石分校」(現・岩手県立雫石高等学校)が開校。「岩手県立美術工芸学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)開校。
  • 昭和24年(1949)、「盛岡市立女子高等学校」と「盛岡市立女子商業高等学校」が統合し、「盛岡市立高等学校」が成立。「盛岡第一・盛岡第二・盛岡商業」の高等学校が統合し、「岩手県立盛岡高等学校」となる。新制大学制度により「岩手県女子師範附属小学校」が「岩手大学学芸学部附属小学校」として成立。
  • 昭和26年(1951)、「岩手県立盛岡高等学校」の再分離。「岩手県立女子専門学校」が「岩手県立盛岡短期大学」となる。
  • 昭和28年(1953)、御新丸跡の岩手県女子師範学校校舎に「岩手県消防学校」設立。(後の盛岡消防本部・岩手県警察本部)
  • 昭和29年(1954)、「盛岡市立河北小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和31年(1956)、「盛岡市立上田小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和33年(1958)、「盛岡市立山王小学校」設立に伴い城南小学校より分離。
  • 昭和37年(1962)、「岩手県立盛岡第三高等学校」、岩手大学学芸学部校舎にて開校。
  • 昭和39年(1964)、「岩手県立盛岡第四高等学校」、盛岡商業高等学校校舎にて開校。
  • 昭和41年(1966)、「岩手大学学芸学部附属小学校」が「岩手大学教育学部附属小学校」に改称。
  • 昭和44年(1969)、岩手県立盛岡短期大学に「附属こまくさ幼稚園」設置。
  • 昭和48年(1973)、仁王小学校に「盛岡市立中津川小学校」を統合。
  • 昭和49年(1974)、「岩手県立盛岡北高等学校」、杜陵高等学校校舎にて開校。
  • 昭和55年(1980)、「盛岡市立高松小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和56年(1981)、「盛岡市立武道館」建造。
  • 昭和57年(1982)、内丸の「武徳殿」解体。
  • 平成2年(1990)、「岩手県営武道館」創立。
  • 平成7年(1995)、「盛岡市弓道場」建造。

大学

なお、盛岡市と境界を接する滝沢村に盛岡大学岩手県立大学がある。

県立・市立高校

※なお、「盛岡・雫石学区」「紫波学区」の高等学校として、盛岡市周辺町村に下記がある。

私立高校

国立・私立中学校

公立中学校

  • 盛岡市立玉山中学校
  • 盛岡市立藪川中学校
  • 盛岡市立渋民中学校
  • 盛岡市立巻堀中学校
  • 盛岡市立米内中学校
  • 盛岡市立黒石野中学校
  • 盛岡市立飯岡中学校

国立・私立小学校

公立小学校

  • 盛岡市立仁王小学校
  • 盛岡市立城南小学校
  • 盛岡市立桜城小学校
  • 盛岡市立厨川小学校
  • 盛岡市立仙北小学校
  • 盛岡市立杜陵小学校
  • 盛岡市立山岸小学校
  • 盛岡市立大慈寺小学校
  • 盛岡市立米内小学校
  • 盛岡市立土淵小学校
  • 盛岡市立中野小学校
  • 盛岡市立本宮小学校
  • 盛岡市立浅岸小学校
  • 盛岡市立青山小学校
  • 盛岡市立北厨川小学校
  • 盛岡市立河北小学校
  • 盛岡市立上田小学校
  • 盛岡市立山王小学校
  • 盛岡市立川目小学校
  • 盛岡市立緑が丘小学校
  • 盛岡市立緑が丘小学校
  • 盛岡市立太田小学校
  • 盛岡市立太田東小学校
  • 盛岡市立繋小学校
  • 盛岡市立城北小学校
  • 盛岡市立大新小学校
  • 盛岡市立松園小学校
  • 盛岡市立高松小学校
  • 盛岡市立東松園中学校
  • 盛岡市立北松園小学校
  • 盛岡市立見前小学校
  • 盛岡市立飯岡小学校
  • 盛岡市立羽場小学校
  • 盛岡市立永井小学校
  • 盛岡市立手代森小学校
  • 盛岡市立津志田小学校
  • 盛岡市立見前南小学校
  • 盛岡市立都南東小学校
  • 盛岡市立月が丘小学校(滝沢村に所在)

交通

鉄道

東日本旅客鉄道
IGRいわて銀河鉄道

道路

高速道路

地域高規格道路

一般国道

主要地方道=

一般県道

盛岡を舞台とした作品

漫画
音楽
映画

有名人

盛岡出身者

名誉市民

ゆかりの有名人

外部リンク

ウィキメディア・コモンズに、}に関連するマルチメディアがあります。


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