読売ジャイアンツ
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| チーム名 | 読売ジャイアンツ |
| 加盟団体 | セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍) |
| 創設年度 | 1934年 |
| チーム名の遍歴 | 大日本東京野球倶楽部(1934年) →東京巨人軍(1935年~1946年) →読売ジャイアンツ(1947年~) |
| フランチャイズ | 東京都 |
| 本拠地 | 1軍:東京ドーム 2軍:読売ジャイアンツ球場 |
| 収容人員 | 45,600人(東京ドーム) |
| オーナー | 滝鼻卓雄 |
| 親会社 | 読売新聞グループ本社 |
| 監督 | 原辰徳 |
| タイトル | リーグ戦:39回 日本シリーズ:20回 |
| (優勝年度) | (リーグ戦) 1936秋、1937春、1938、1939、1940、 1941、1942、1943、1949、1951、 1952、1953、1955、1956、1957、 1958、1959、1961、1963、1965、 1966、1967、1968、1969、1970、 1971、1972、1973、1976、1977、 1981、1983、1987、1989、1990、 1994、1996、2000、2002 (日本シリーズ) 1951、1952、1953、1955、1961、 1963、1965、1966、1967、1968、 1969、1970、1971、1972、1973、 1981、1989、1994、2000、2002 |
過去にチーム名を東京巨人軍としていたことや、マスコミがそう呼称していた事情から「巨人」という略称が一般的に浸透している(同じような例として東京優駿/一般呼称:日本ダービーがある)。なお2002年より運営会社名は「株式会社読売巨人軍」となっている。日本野球機構やセントラルリーグのオフィシャルウェブサイトなどでも略称に基本的に「巨人」が使われていること(一部ページでは読売となっている)から他球団とはその略称の設定の仕方が違うものの読売ジャイアンツの略称は「巨人」であるのが一般的と考えるのが適当である。
しかし読売ジャイアンツ以外の球団はいずれもチーム名の一部が略称となっており、他球団に倣った現在のチーム名に則した略称は「読売」が当てはまる。Wikipediaの百科事典と言う性質上では他球団に倣った「読売」のほうが知識に乏しい読者に対してもわかりやすく、また「読売」という略称はドラフト会議など一部の公的な場でも使用することがあり「読売」と略しても読売ジャイアンツを指すことは容易に理解できる。
上記より表中などやむをえず略称を用いる場合は「読売」とするか、「巨人」という略称を使用する場合は詳しくない利用者の混乱を避けるため「他球団の略称方法と異なるが「読売ジャイアンツ」は「巨人」という略称でこれを指すのが一般的であるためここではそれに従う」と当該記事で必ず明記するのが望ましい。また本文中など特に略称を用いる必要がない場合には略さずに「読売ジャイアンツ」とするか「ジャイアンツ」と書くのがわかりやすい。やむを得ず「巨人」という略称を使用する場合は表中と同様に上記を明記する方が望ましい。ここでは表中では巨人を用い、文中では特に必要が無い限り「ジャイアンツ」で統一する。
1934年11月2日、アメリカメジャーリーグ選抜軍が来日し、全日本軍と親善試合を行い大盛況を博す。アメリカのプロフェッショナル野球を目の当たりにした市岡忠男・浅沼誉夫・三宅大輔・鈴木惣太郎の4人が、メジャー選抜軍を招待した読売新聞社の正力松太郎社長にプロ野球球団結成を働きかけ、同年12月26日に大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が誕生。全日本軍の選手を中心に結成された。(なお、日本のプロ野球球団としては、過去に日本運動協会、天勝野球団が設立されたことがあり、大日本東京野球倶楽部は日本初のプロ野球球団ではない。しかし両球団が関東大震災の影響などにより興行として長く続かず、最初に球団として本格的に成立したのが大日本東京野球倶楽部であったことと、ジャイアンツがプロ野球界をリードする状況が続いたため、日本初とする誤った見解が広まってしまった。ウィキペディア日本語版メインページの12月26日付「今日は何の日」でも、「日本初のプロ野球球団」と誤った記述があった。より正確に表現するならば、「現存するプロ野球球団として日本初」とするべきだろう。)
1935年2月14日、第1次アメリカ遠征に出発。チーム名を「東京ジャイアンツ」として米国内を転戦した。帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称。同年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。この年より日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人はアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。1936年の秋季大会は勝ち点で大阪タイガースと同点になり洲崎球場で優勝決定戦が開催、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし第1次黄金時代を築いた。なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、タイガースに2年連続で敗退しているが、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と38年秋のリーグ優勝も通算のリーグ優勝の回数にカウントされている。
1946年のリーグ戦再開より再び参加。1947年読売新聞社が正式に経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称。ニックネームを導入し、読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭に苦戦を強いられるが、監督・三原修の復帰や「赤バット」の川上哲治をはじめとする第1次黄金時代の選手を呼び戻すことによりチーム体制を整えた。また1948年オフには南海の別所毅彦を引き抜き物議を醸した。1リーグ最後の1949年に優勝を奪還。同年シーズンオフの新球団加盟騒動ではライバルの毎日新聞率いる毎日オリオンズのリーグ加盟に強硬に反対。南海電鉄、阪急電鉄、東急電鉄のパ・リーグに対抗して阪神電鉄、中日新聞、松竹とセ・リーグを結成した。
リーグ分立1年目の1950年こそ優勝を逃すものの、同年に復帰した水原茂を監督に据えて翌1951年からは日本シリーズ3連覇を達成。1954年の2位を挟んで1955年より1959年までリーグ5連覇と第2次黄金時代を成した。しかし1956年~1958年の日本シリーズでは、元巨人の三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。さらに1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに4連敗。1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許して水原監督が勇退。1961年、川上哲治監督が就任。川上は当時先進的とされたロサンゼルス・ドジャースの戦術を取り入れ、就任1年目にして見事に日本一を達成。その後、1963年にも因縁の西鉄を破って日本一になり、前人未踏のV9への道を進むことになる。
1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。一般的にこの時期のことをV9(ブイナイン)と呼ぶ。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は3連覇までであり(1956~58:西鉄、1975~77:阪急、1986~88:西武、1990~92西武)他球団の追随を許す事のない大記録である。
この時期に長嶋茂雄、王貞治、柴田勲、高田繁、土井正三、黒江透修、末次利光、堀内恒夫、高橋一三など日本プロ野球史を代表する選手が出現。質の高いプレーと観客の目を意識したパフォーマンス(わざとヘルメットや帽子に大きなものを使って躍動感を示すのは有名)・1970年代からのカラーテレビ普及による野球中継の開始も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」と並び称せられた。
1973年には阪神タイガース・中日ドラゴンズと激しい優勝争いを演じ、10月22日に甲子園球場で高橋一三の好投と5回まで毎回得点を挙げた打線の奮起で劇的な逆転優勝を決める。しかしながら試合中から阪神の不甲斐ない戦いぶりに阪神ファンが暴走をはじめ、試合後に1塁側スタンドから暴徒と化したファンが乱入。選手は胴上げを行う事も出来ずにベンチ裏へと下がったが王貞治をはじめとした選手や関係者、警察官やカメラマンまでもが怪我を負った。当然応援に訪れていた巨人ファンも襲撃にあった。現在でも阪神タイガースとの話題になったときに頻繁に伝えられる事件であり、プロ野球史に残るもっとも大きな歴史的汚点の1つがV9時代の最後を飾る事ととなってしまった。
V9時代は後世に知られる著名な選手が集っていたがそれが逆にV9時代後半は主力選手の高齢化と若手の台頭不足を招いた。その結果1974年中日ドラゴンズに20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を果たすことはできなかった。この年を最後に川上監督が勇退。またV9を支えてきた長嶋と黒江、さらに森昌彦も現役を引退する。
1975年、前年に引退した長嶋監督が就任。しかし開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島東洋カープの胴上げを本拠地・後楽園で許すという屈辱的な1年だった。1976年には日本ハムファイターズから張本勲、太平洋クラブライオンズから加藤初をトレードで補強し、前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位の翌年の優勝は史上初)。しかし日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年、王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。
1978年オフ、当時、法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる(最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川が一旦阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく)。1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫する。その責任を取り、長嶋監督が退任。また王も現役を引退、球団は大きな転換期を迎えた。
1981年、藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによるトロイカ体制が誕生。中畑清、原辰徳、篠塚利夫、西本聖ら若手が台頭、4年ぶりのリーグ制覇を果たす。日本シリーズでも日本ハムファイターズを破って日本一に輝く。1983年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズとの激闘の末、3勝4敗で敗れる。その後1984年から1988年までの5年間は王監督が指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが、西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響き2位に転落し、優勝した中日に12ゲームという大差をつけられる。王監督はフロントから責任を取らされる形でこの年限りで辞任。
1989年、藤田監督が復帰。チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を果たす。同年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫して窮地に追い込まれるが、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビューアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道されたことで選手が奮起。そこから一気に4連勝し、大逆転で17回目の日本一に輝く。1990年は斎藤雅樹の2年連続20勝もあり2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは工藤公康、秋山幸二、清原和博らを擁する西武を相手に4連敗と惨敗を喫する。1991年は4位、1992年は2位と2年連続V逸。この年限りで藤田監督が勇退し、球団はまたしても転換期を迎えることになった。
1993年には長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドを獲得し3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが打撃陣の不振から3位に終わった。オフに看板打者の駒田徳広がFAで横浜ベイスターズへ移籍。逆に中日ドラゴンズの落合博満がFA移籍し、横浜を自由契約になった屋鋪要も獲得した。1994年はオフに獲得した落合を4番に据え前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、8月以降失速し、最大で10ゲーム差をつけた2位中日に終盤に追いつかれてしまう。そして、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は注目されてマスコミでも大きく報道され、長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で逃げ切り、リーグ優勝を達成。その後、日本シリーズでは、それまで1度も倒せなかった宿敵の西武ライオンズを4勝2敗で破り、18回目の日本一に輝く。
1995年は近鉄バファローズの阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島東洋カープの川口和久、ヤクルトスワローズの広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトスワローズを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを潤沢な資金力で獲得したものの低迷、首位を走るヤクルトとの逆転を目指し、長嶋監督は「メークドラマ」と呼んで選手の奮起を促した。しかし逆転はならずヤクルトに優勝をさらわれてしまう。1996年は前半こそ首位の広島に苦戦を強いられたが、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーが後半に抑えとしてフル回転の活躍を見せ、リーグ史上最大の11.5ゲーム差(最大時)を跳ね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。同年のオリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでは3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。
1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビとして期待された。この際、清原と入れ替わるように落合が日本ハムファイターズに移籍。また、近鉄の石井浩郎を石毛博史と吉岡雄二との交換で獲得。フロント批判から千葉ロッテマリーンズを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、主力選手に故障者が続出したことから4位と低迷。同年オフにはドラフトで高橋由伸を獲得し、主力投手の木田優夫を野村貴仁との交換トレードでオリックスに放出。また、日本ハムを自由契約になった金石昭人を獲得した。1998年は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、バルビーノ・ガルベスの危険球退場、趙成ミンの右ひじ痛などが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治、二岡智宏を獲得。守備・走塁から西武を解雇されたドミンゴ・マルティネスを獲得した。1999年は中日との激しい首位争いを繰り広げるが、村田真一や広澤の離脱で前半は波に乗れず、後半は巻き返すも清原の離脱で2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。
2000年は、FA宣言をしていた福岡ダイエーホークスの工藤公康と広島の江藤智を獲得。シーズンでは投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放って優勝を決めるなど派手な野球を見せ、1994年、1996年に続き中日の前で胴上げを行った。また日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し、本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。2001年は大野倫+金銭でダイエーから吉永幸一郎を獲得。また逆指名で阿部慎之助が入団し、村田真一との正捕手争いが激化した。結局は阿部が正捕手を掴んだものの経験不足は否めず、ヤクルトと終盤まで優勝を争ったものの2位に終わった。また同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。
2002年、原辰徳監督が就任。原は1年目にしてセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武ライオンズを相手に球団史上初の開幕4連勝のストレート勝ちで20回目の日本一に輝くという、非の打ち所のない優勝を達成した。シーズンオフに不動の4番打者である松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。2003年は、松井に代わる大砲としてロベルト・ペタジーニをヤクルトから獲得したものの、守備位置の問題や投手補強不足が原因で3位に終わる。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神タイガースに15.5ゲーム差をつけられる惨敗であった。そして9月26日、原は監督を辞任した(コーチ人事についてフロントとの対立があったとされている)。
2004年からはV9時代のエース堀内監督が指揮。ダイエーから小久保裕紀、近鉄からタフィ・ローズを獲得するなどの大型補強を敢行し、かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などの他球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋茂雄終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録を樹立する。しかし、投手陣の崩壊、本塁打ばかりで機動力がなくつながらない打線、育たない若手、外国人補強の失敗など課題が山積。成績は前年と同じ3位だった。逆にチーム本塁打が12球団中最下位(111本)であった落合博満監督の中日ドラゴンズが、12球団で唯一のチーム防御率3点台(3.86)に加え、シーズン失策がわずか45(新記録)という守り勝つ野球を見せて優勝したことは、実に象徴的な出来事であった。一方、近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題で球界に激震が走る中、球団スカウトが行った明治大学・一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉オーナーが辞任。ただし、翌2005年には会長に復帰している。
2005年はポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、主力選手の成績不振による序盤からの低迷や、それに伴う観客数や視聴率の低迷、一部放送局による延長の時間短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送、兄弟会社の日本テレビでも中継の延長が中止され、さらには打ち切りを決行するなど、人気凋落に拍車が掛かっている。この年から始まった本拠地での観客動員数の実数発表でも、阪神より少ない日も珍しくなくなった。結果として球団史上ワースト記録の80敗とチーム防御率3年連続4点台を喫し26年ぶりの5位となった。この年開幕からシーズン終了まで一度も5割に到達できなかったのは12球団のなかでも巨人だけという(他の11球団はどの球団もシーズン中に最低でも1度は5割以上の成績を記録していた。ただ他球団の中には1試合消化時点のみ貯金あり=違いは開幕に勝ったかどうかだけの球団もある)実に30年ぶりという珍記録であった。この記録を始めこの年は最下位になった30年前に喫した数々の不名誉な記録に並ぶ、或いは更新するなどと70年以上に及ぶ球団史上でも稀に見る屈辱のシーズンになった。
2005年シーズン中から勃発したストーブリーグでは、来季以降は初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターを招くことも水面下で検討されていたが、この考えが表面化すると「打倒巨人」を掲げてきた者を監督とすることと球団出身者のみを監督とする伝統を崩すことに一部のファン、OBなどが反発。これを受けて星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。
2005年10月5日、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表。堀内は成績不振の責任を取って、任期を1年残しての退任。原監督は「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」として福岡ソフトバンクホークスを退任した投手コーチ・尾花高夫を王監督からの直々の打診もあり招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より古巣広島東洋カープに戻っていた打撃コーチ・内田順三を復帰させた。原監督と尾花コーチはチームの方向性を若手中心として、ドラフトで辻内崇伸、福田聡志、栂野雅史、越智大祐といった若手有力投手を獲得した。しかし同時にFA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)(野口は近年不調続きのため獲得したことに疑問の声も上がっているが。)、オリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル(旧登録名:JP)といった即戦力投手を獲得している。また野手では、金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)、更に前年30本塁打を放ちながらも自由契約となっていた李承燁(同)を獲得した。
その一方、清原・ローズを解雇、江藤を豊田のFA補償で西武に放出。李承燁の獲得こそあったものの、ホームラン打者と呼べる主力選手は李と小久保のみとなった。原は2005年にワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げており、その方針に従った選手の入れ替えがなされている。
チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。またマスコミを親会社に持っていることや、チームの人気が高いことから補強に関する報道も多い。 FA制度が導入された1990年代後半から、「巨人軍」「長嶋茂雄」というブランドの求心力と多額の資金攻勢でFA宣言した他球団の4番・エースを集めている。チームの補強策の一環であり、4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもある。だが実際には、落合博満と小久保裕紀以外は期待はずれの成績に終わっている(その原因については、他球団よりもエースといわれる投手との対戦率が非常に高い巨人での活躍が難しいことのほかにも、巨額の複数年契約で甘やかしているせいとも「巨人軍」のブランドの重みにプレッシャーを感じるからだとも言われている)。メリットとしては実績充分の選手を擁して優勝を狙う体勢を常に整えていることやライバル球団の戦力補強阻止、ライバル球団から主力を引き抜くことでそのチームを弱体化させられることだが、デメリットとしては
またFA制度・逆指名ドラフトとジャイアンツ優位といえるシステムをなかば強引に構築したが、勝率・優勝回数とも前述したシステム構築前とほとんど変わらないどころか、近年はむしろ悪くなっており、ファンのチーム戦略への不満を増長している(旧来の戦略と併せて有効に活用しているのは、現在では阪神やソフトバンク(ダイエー)が挙げられる)。こういった傾向は、近年の観客動員数や視聴率の低迷の原因とも言われている。 また、フリーエージェント選手の乱獲などが他球団ファンの強い反発を生む要因ともなっている。 ただし、こういう補強に危機感を持った若手選手(特に野手)が必死に練習し、ハングリー精神を生み出している一面もあり、2006年に原監督が復帰後は、これまでの巨砲主義路線への反省もあって先述のような「スモール・ベースボール」路線を打ち出した事もあり、怪我をした主力選手と遜色ない活躍を開幕ベンチスタートの若手選手達がみせている。
チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
読売ジャイアンツでは球団史上2人の投手がこれまでに完全試合を、 9人の投手が延べ12回ノーヒットノーランを達成している
完全試合達成投手
| 年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
| 1950/06/28 | 藤本英雄 | 4-0 | 西日本 | 青森 |
| 1994/05/18 | 槙原寛己 | 6-0 | 広島 | 福岡ドーム |
ノーヒットノーラン達成投手
| 年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
| 1936/09/25 | 沢村栄治 | 1-0 | 阪神 | 甲子園 |
| 1937/05/01 | 沢村栄治 | 4-0 | 阪神 | 州崎 |
| 1937/07/03 | ヴィクトル・スタルヒン | 4-0 | 後楽園イーグルス | 州崎 |
| 1939/11/03 | 中尾輝三 | 1-0 | 東京セネタース | 後楽園 |
| 1940/07/06 | 沢村栄治 | 4-0 | 名古屋金鯱軍 | 西宮 |
| 1941/07/16 | 中尾輝三 | 3-0 | 名古屋金鯱軍 | 後楽園 |
| 1943/05/22 | 藤本英雄 | 3-0 | 名古屋金鯱軍 | 後楽園 |
| 1952/07/26 | 大友工 | 17-0 | 松竹 | 大阪 |
| 1967/10/10 | 堀内恒夫 | 11-0 | 広島 | 後楽園 |
| 1968/05/16 | 城之内邦雄 | 16-0 | 大洋 | 後楽園 |
| 1970/05/18 | 渡辺秀武 | 2-0 | 広島 | 後楽園 |
| 1976/04/18 | 加藤初 | 5-0 | 広島 | 広島 |
参考記録
| 1971/09/06 | 菅原勝矢 | 4-0 | ヤクルト | 神宮 |
7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録
ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍(当時)から誕生した。巨人軍の当時の豪腕投手だった沢村栄治が1936年9月25日に甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村はこの後あくる1937年5月1日に洲崎で開かれた春季戦・タイガース戦、更に1940年7月6日に西宮で開かれた名古屋戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎(広島)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。
日本プロ野球において完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツでも完全試合を達成したのはわずかに2人だけである。
日本球界初の完全試合を決めたのは藤本英雄。1950年6月28日、青森球場で開かれた西日本との一戦で自身2度目(戦前の1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の大偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されないという何とも寂しい結果となった。
そして20世紀最後の完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日に福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった記念の試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、1978年の今井雄太郎(阪急)以来のパーフェクトを達成。現役引退後、TBS解説者として出演する際は「ミスターパーフェクト」として紹介されている。
読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。
曲名に関しては読売ジャイアンツ公式HPの年表に準じて巨人軍の歌で統一し、括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、ジャイアンツを最もライバル視している阪神タイガースの応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も作っている。
本拠地東京ドームの最寄り駅であるJR水道橋駅では同駅の開業100周年を記念して2006年7月4日から同年シーズン終了(予定)まで、発車メロディに「闘魂こめて」を流すようになった。
チーム結成当初は、まだ職業野球のクラブチームがジャイアンツ1チームしか存在しなかった。その為1935年は上半期をアメリカ合衆国遠征、後半は日本国内の社会人チームとの対戦に割り当てて、長期間にわたる遠征をこなすことになった。
まず、アメリカ遠征。2月(まだこの時は「大日本東京野球倶楽部」)に当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。
この時、先発隊で渡米していた鈴木惣太郎マネジャーは「『大日本東京野球倶楽部』では長ったらしいから何か簡単な名前が思いつかないだろうか」と、現地マネジャーのフランク・オドゥールに相談する。すると「ジャイアンツとヤンキースのどちらかはどうだろう。アメリカではどちらも人気があるチームだから(ニューヨークのチーム)」と提案。鈴木は「ヤンキースは日本語で適当な言葉が見当たらない。ジャイアンツなら巨人。これならいけるだろう」ということでジャイアンツのチーム名はこうして決まった。
チームは2月27日(現地)にサンフランシスコ湾に到着し、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という超異例の過密日程を戦った。主な対戦相手は大リーグのマイナークラスのチーム。最初は物珍しかったためファンも大勢駆けつけたが、試合の不甲斐なさから徐々にファンが激減。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。それでも75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は無事終了した。このアメリカ遠征では日本独特の文化を出そうということで選手の背番号はなんと漢数字(例えば沢村栄治だと十七=17)を使用した。ところが漢字文化のないアメリカ人にはさっぱり分からず、「あのプラス(+=10)とマイナス(-=1)は何を意味するんだ?」という疑問が後を絶たなかったといわれる(なお日本初の職業野球リーグが始まった1936年度も春季にアメリカ遠征を行ったため、4月からの最初の公式戦は出場しなかった)。
選手らは帰国後夏休みを挟んで9月6日から今度は日本の社会人野球チームとの親善試合をこなすことになる。この国内巡業も原則的にはファン確保の名目で1日2試合のダブルヘッダー開催が多く、後座試合として巨人軍選手による紅白戦が開かれた。この国内巡業の試合は40試合行い36勝3敗1引き分け。圧倒的な実力を見せたが、社会人チームに3敗したことが響いたのか、三宅大輔監督は解任されてしまった。ちなみに3敗のうちの2敗は東京鉄道局から喫しており、三宅解任後はこのチームの監督をしていた藤本定義が後任として迎えられた。
1936年2月9日に、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った始めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。なお、日本で初めてのプロチーム同士の対戦は日本運動協会対天勝野球団であるが両球団は現在の日本野球機構とは無関係なプロチームであったため、知名度に乏しく、しばしば誤った記述が見られる。
第二次世界大戦が終わった翌年の1946年、日本プロ野球は1944年以来2年ぶりに公式戦を再開したが、兵役についていた選手たちが元の球団に復帰するかどうかで揉め事があった。当時は「元いたチームが敗戦前に解散していれば元のチームに戻る必要はないが、元いたチームが敗戦後も解散せずかつチームから何らかの形で給与を受けていた場合は、敗戦前に所属していたチームに復帰しなければならない」という決まりがあった。
しかし巨人からはヴィクトル・スタルヒンと白石敏男が、阪神からも藤井勇が、球団の許可なくパシフィックへ入団してしまった。これによりパシフィックは連盟から問題が解決するまで3選手の出場を禁止するように言い渡されたが、藤本定義監督は3選手を5月下旬に行われた4試合に出場させてしまった。このことで巨人と阪神はパシフィックを提訴した。
提訴が受け入れられ、3選手が出場した4試合は全て0-9でパシフィックの敗戦となったが、パシフィックの実際の勝敗は1勝3敗であった。その1勝はこの年巨人と優勝争いをしていた近畿グレートリング(現:福岡ソフトバンクホークス)から上げたものだったため、ライバルに1勝をプレゼントしてしまう結果となった。最終的に1ゲーム差でグレートリングが優勝し、同率でプレーオフとなるはずが提訴をしたために優勝を逃した。
1955年、この年のペナントレースは大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ(ジャイアンツ優勝)、更にその後にも日米野球・ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあってそれらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。
なおジャイアンツは以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。
1961年9月7日に開かれた対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は3塁コーチャーズボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走る。この後ジャイアンツは土屋はラインアウトだったと主張し、一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が走塁妨害を主張、判定が覆ってホームインが認められることになり、両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、試合が再開されたのは24時前で、試合終了は結果的に9月8日の0:11となり史上初の2日間またぎの試合となった。
2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で1990年-2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。
1981年の日本シリーズでは、大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズと対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦であり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に日本ハムが本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。 ちなみに第1戦の始球式は東京決戦にちなみ、当時の東京都知事・鈴木俊一が行なった。
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫が内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野線審を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。当判定を下した大里審判員は、同年審判員を引退し審判指導員の道を歩んだ。
1999年は中継ぎ投手の不振や村田真一捕手の負傷もあり、4月9日の横浜戦と4月28日のヤクルト戦では一時8点リードしながらともに逆転負けした。 ほか、1991年7月19日の中日戦でも8点差を逆転されている。この時には中村武志に8回に代打同点満塁、10回にサヨナラと2打席連続本塁打を打たれて敗れた。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 |
| 横浜 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | X | 13 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ヤクルト | 1 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 10 |
| 巨人 | 4 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 |
2005年、交流戦のオリックス6回戦(5月29日)から日本ハム5回戦(6月1日)まで、プロ野球7度目、球団史上初の3試合連続引き分けを経験した。
オリックス戦は初回に小久保裕紀の3ランで先制しながらも追加点が奪えず、7回に追いつかれて3-3。札幌に舞台を移した日本ハム戦は両日とも23時前までもつれ込む大接戦となった。初戦は日本ハム投手陣が13被安打・11四死球と乱調だったもののジャイアンツ打線も18残塁の拙攻で4-4、2戦目は守護神・木佐貫洋が最終回にセギノールに1発を浴びて追いつかれ、5-5の引き分けに終わった。
この3戦ではいずれもリードしながらも追いつかれ、また同点となった後は勝ち越し点を奪えずと、図らずも2005年のジャイアンツの拙攻と中継ぎ抑えの弱さを露呈することとなった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
| オリックス | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
| 日本ハム | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 巨人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 |
| 日本ハム | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 |
2006年6月11日、交流戦のロッテ最終戦(第6戦)で李承燁の本塁打が取り消されるという前代未聞の珍事が発生した。3回表2死得点1-1の同点の場面、一塁に走者小関竜也を置いて、李承燁が渡辺俊介投手から右中間席へホームランを打ち、勝ち越しかと思われた。しかし打者走者生還後、渡辺が投球する前に今江敏晃三塁手が「一塁走者の小関が三塁を空過し本塁に生還した」として三塁触塁のアピールプレイを行い、これが西本欣司三塁塁審に認められ小関選手はアウトとなった(野球規則7.10)。これにより本塁生還前に3アウトになったため李の得点は認められず、記録上はシングルヒットとされた(野球規則7.12)。ホームランで打者走者がベースを空過しためアウトとなったことはあるが、走者が空過したためヒットとされたのはプロ野球史上初の出来事である。原辰徳監督はこの裁定に関して抗議を行ったが西本塁審が「踏んでいないという絶対的な自信がある」と発言した為、激しい抗議を行わなかった。
翌6月12日にジャイアンツは該当シーンのビデオ(テレビ局の撮影映像)を公開し、「踏み忘れの判定は明らかな誤審だった」「(絶対的な自信があると言った西本)塁審は、ベースを踏んだ右足のかかとの位置からかなり後方に立っていた」(外部引用)としてセントラル野球連盟に対して口頭で抗議を行ったことをを明らかにした。6月13日には抗議書と映像の記録されたDVDも提出のうえ審判技術の向上とビデオ判定導入を文書で要望し、同時に口頭で記録の訂正を求めた。会見で公開された映像を受けて「小関ベース踏んでいた」「小関の無実証明」「三塁ベースを踏んでいるようにも見える」などと報道された。6月19日に連盟より回答が示され、その中で連盟は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」(野球規則9.02(a))ことと野球規則内に映像での判定の規定が無い事から「検証結果に論評すべきでない」と回答が示され、誤審かどうかについてはコメントを避けた。また「映像で確認した場合」に「当該ジャッジと変わっていることもあるのは残念ながら事実」ではあるが野球は肉眼によって裁定される競技でありその原則は守られるべきである、としてビデオ判定導入については考えていない、とした。球団は再度抗議書を提出したが同様の回答が再度示され、それ以上の抗議は見送られた。
正力松太郎オーナーが「巨人軍は紳士たれ」という言葉(遺訓〔巨人軍憲章とも呼ばれる〕のうちの1つ。残りは「巨人軍は常勝たれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」)を残したようにジャイアンツ選手は社会人、人間として模範となることを求められており、テレビ出演や試合の移動の際はスーツ姿にネクタイが義務付けられてきた。また、髭を生やす事も禁止されており、大洋時代は「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークのシピンですらジャイアンツ移籍後は髭を剃った。しかし同じく髭がトレードマークの屋鋪要が大洋から移籍してきた時は条件付き(活躍する事)で認められた。
ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は京成電鉄。東芝、阪神電気鉄道、東京急行電鉄、吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2ヶ月で読売興業に吸収されている。1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(旧有楽町そごう*―現ビックカメラ有楽町店)や旧読売新聞東京本社跡地にあるプランタン銀座店ビルの保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社(旧:中部本社)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の称号が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。
戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。
例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。ちなみに、秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。
選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。
1957年、ジャイアンツオーナーを兼任する正力松太郎が会長を務める日本テレビがカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためにジャイアンツのユニフォームを変更した。
最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された(南海ホークスとの日本シリーズでは元のユニフォームが使用された)。
次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでのジャイアンツのチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。
しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスかミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。
このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(ちなみにカラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年の東京オリンピックである)。
藤田元司は投手陣を中心に守備力を重視した野球を展開し、通算7年間の監督在任中に4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。この藤田野球に欠かせない存在だったのが「三本柱」といわれる、3人のローテーション投手である。
1981年からの3年間で中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二。西本は松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同い年の定岡、法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。定岡は1985年の引退までに51勝、江川は1987年の引退までに135勝、西本は中日ドラゴンズに移籍する1988年までに126勝(最終的に165勝)の成績を残している。
1989年からの4年間で中心となったのは斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄。斎藤は安定感、槙原は球威、桑田は投球術と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。斎藤(180勝)、槙原(159勝56セーブ)は2001年に揃って引退したため、現役は桑田(172勝)のみである。
かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山、旭川、札幌ドームでの2-3連戦)、九州シリーズ(平和台、北九州、福岡ドーム、熊本などでの2-3連戦)は毎年、更に隔年で北陸シリーズ(金沢、富山県営、富山市民(アルペンスタジアム)、福井などでの2-3連戦)、東北シリーズ(盛岡、仙台、郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。 しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため(ドーム開催のほうが観客収入が多いことと移動を減らして選手の負担を減らそうとするフロントの考えと思われる)、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年度は地方都市の開催を進めることになり、仙台での15年ぶりの復活開催や、長野、長崎での公式戦初開催(長野県では過去に松本で開催した事例あり)など地方開催を再び増やすことになった。特に長崎では伝統の一戦・阪神タイガースとの試合を編成したが、これは1日移動日を挟んで東京ドームでもう1試合を開催する変則2連戦となった。
2006年は以下の各球場で、ジャイアンツ主催の公式戦が開催される予定である(全て18時開始予定)。
関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年にフランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に西京極、大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に1955年の大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。
ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻め)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は殆どなかった。しかし1997年に大阪(京セラ)ドーム球場が竣工し、その年には読売新聞社大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは1999年と2001年以後は毎年1-2試合開催している。2001年以後は東京ドームで開く都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置。しかし2006年は先述のように京セラドームでは4月19日に開催が予定され(対ヤクルト)、例年春に行われる九州遠征(熊本・福岡)が8月下旬に開催される。
また公式戦ビジターゲームは相手のホームチームのフランチャイズ以外(つまりビジターの地方ゲーム)での開催はしばらく無かったが、ここ数年は静岡草薙球場での横浜戦など地方ビジターゲームも行なわれる。
東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。これまで後楽園時代は頻繁に日曜日のデーゲームを開催されていたが東京ドームが開業1988年以降はゴールデンウィーク期間中や開幕シリーズなどで部分的にデーゲームをした事例はあるもののビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは殆どなく上記の地方球場開催の減少も影響し、ナイター設備がない円山球場での北海道シリーズ(現在は札幌ドームで行われる)と消化試合程度だった(2002年度の札幌ドームでの北海道シリーズはワールドカップサッカー日韓大会=札幌ドームも会場の一だった=のテレビ中継の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また2004年9月23日の横浜スタジアムでの横浜戦もデーゲームで開催された)。しかしファン離れが深刻になってきていることを踏まえて、春季の試合を中心に年間6-7試合程度を日曜日のデーゲーム開催で対応することでファンの更なる増加を目指そうという考えを示しており以下のような活動が認められる。
2005年は東京ドームでの日曜日のホームゲームのうち、5試合(5~6月の交流試合(日本版インターリーグ)3試合、セントラル・リーグ2試合)の試合開始を17時からのトワイライトゲーム(ナイトゲームは18時開始)、また5月5日の横浜戦は14時からのデーゲームとした。また、ビジターゲームでは5月1日の広島戦(広島市民球場)と、9月17・18日の横浜戦(横浜スタジアム)2試合の週末の3試合がデーゲームで開催された。
2006年は全てのホームゲームで試合開始を18時のナイターに戻すことになった。一方ビジターゲームでは広島、横浜戦に加え、ナゴヤドームでの中日戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで行うことになった。対象となるのは横浜戦1試合(4月16日)、広島戦2試合(7月8日、9日)、中日戦4試合(4月8日、9日、6月24日、25日)の7試合である。これは、テレビ中継を行う放送局のゴールデンタイムの定時番組枠確保という狙いもある。
2005年度の宮崎キャンプで様々なファンサービス事業を実施した。内容は以下のとおり。