読売新聞






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読売新聞(新聞の題字及び漢字制限前表記は「讀賣新聞」)(よみうりしんぶん)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。販売部数は1000万部を超え、世界で最も発行部数が多い(かつては旧ソ連共産党機関紙プラウダ)。ギネスブックにはHighest Daily Newspaper Circulationで、朝刊と夕刊をあわせて2002年に14,323,781部を発行したと記されている。英国Times紙と特約契約を交わした。また、親米保守派新聞として知られている。
歴史
紙面・論調
紙面の編集方針や論調は右派・保守主義だが、かつてはリベラルだった。基本的に自民党支持、改憲支持、新自由主義経済改革支持であるが、戦争経験者であり、靖国神社(特に遊就館)における歴史認識を批判する主筆渡邉恒雄は首相の靖国参拝に反対している。
政府の政策に関し、政策分野によっては(改憲問題、防衛政策など)、はっきり社の見解(社論)を打ち出すのが特徴である。他方、あまり得意でない政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどなので、記事間の意見の違いについて考えさせられる機会が少ないのも特徴である。
全体的に見て、かつて購読者数日本一の争いを繰り広げたライバルの朝日新聞とは好対照かつ好敵手であるといえよう。
注目を集めた報道
憲法改正草案発表
一マスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案発表」を発表し憲法改正論議のさきがけとなる。
オタク系の情報掲載
全国の夕刊読売新聞でOTAKUニッポンというコーナーを毎月最終金曜日に掲載し一部で話題となった。(現在は掲載終了)
読売争議
1945年11月から1946年10月にかけて、2度にわたって起こった争議。一時的とはいえ、労働組合側が新聞の発行権を握った。
第1次争議
太平洋戦争終結後、各マスコミでは経営陣の戦争協力について糾弾する動きが見られた。読売も例外ではなかったが、他社と違ったのは正力の力が極めて強かったことであった。この力を背景に、正力は開き直って糾弾していた記者のうち急先鋒格だった5名を解雇した。従業員側はこれに反発し争議が勃発した。ところが、程なくして正力がA級戦犯指名を受けて巣鴨プリズン収監が決定し、経営側は急遽「リベラル派の馬場恒吾(1875~1956。ジャーナリスト出身)を社長にする」ことを交換条件に5名の復職と民主化を従業員側に提案。従業員側も同意して12月に一応の争議終結を見た。
それから程なくして読売社内に労働組合が結成され、委員長には、徹底したリベラリストで知られていた鈴木東民(1895~1979。後の釜石市長)が据えられた。鈴木は「民主読売」をモットーに「人民の機関紙たること」を宣言。編集局長・主筆・社会部長の主要3職も兼ねた。また、印刷部門の支配も労組に委ねられた。この頃、北海道新聞や西日本新聞などでも経営陣追放などの動きが見られた。
第2次争議
「民主読売」の成立は他のマスコミに大きな影響を与え、さらには記者クラブ改革や新しい新聞の発刊にまで波及した。しかし、1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。
1946年5月、馬場はいきなり鈴木の解雇を発表。これがきっかけで争議が再発した。民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を影ながら応援していたが、この第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。
日本共産党などはこの争議を高く評価しているが、大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。
この争議の混乱が尾を引いて読売は社の体力が大きく疲弊。読売の民間ラジオ局「読売放送」の構想が挫折した(後にラジオ東京の前身の一つとなった)。
疑義が持たれた報道、スキャンダル
1978年ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院、法政大学出身(のち阪神タイガース・読売ジャイアンツ、解説者)の投手江川卓が入団契約を結んだ事件。いわゆる江川事件のことである。これは栃木選出の代議士である船田中議員らが関与したとも言われ、その経緯は実録たかされ(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志)などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種の恥やタブー扱いになっていた。が、2005年の日本テレビ放送網のスポーツ番組においてこの事件が取り上げられ、内部での扱いが変化しつつある。
1990年12月14日、東京都調布市の読売新聞調布サービスセンターにおいて当時19歳の新聞奨学生・上村修一氏が過労死する事件が発生。その新聞販売店は読売新聞育英奨学会が禁止事項に挙げている業務などをさせていたことが発覚。1993年12月3日、両親が読売新聞社と販売店店主を相手取り提訴、1999年7月27日和解が成立するが、どの新聞社でも新聞奨学生の劣悪な労働環境という点で同じ問題点を抱えているため、未成年者の過労死という大きな問題にもかかわらず新聞や資本関係にあるテレビで報道されることは極めて少ない。当時の経営者はその後も場所を変え読売新聞販売店経営の業務を継続した。
2004年11月5日、渡邉恒雄の名義とされる日本テレビ放送網株が讀賣新聞社の実質所有する株式である事を公表し有価証券報告書を訂正。これを受けて地方のテレビ局24社とラジオ局18社の株式を役員などの第三者の名義で実質保有している事も公表した。その結果、テレビ9社とラジオ3社に対する出資比率がマスメディアの集中排除の原則における制限を越えていた事実が明らかになる。その後、第三者名義にして制限を逃れる行為は他の全国紙や地方紙でも行われていた事が次々に発覚する。
2005年5月4日から5日早朝にかけてのJR福知山線脱線事故記者会見の席上、JR西日本の事故直後の対応やレクリエーションを中止しなかった事について、出席した記者が説明を求めて「あんたらはもういい、社長を呼んで」等と罵声を浴びせたり、感情的発言を繰り返していた事が判明。取材モラルに欠けていないかと読者や他のマスコミ、BBS・2ちゃんねるなどから批判された。後に、当の記者が報じられたことのうちの一部を否定している。
「社会部王国」
読売新聞は、かつて立松和博、本田靖春(東京本社)、黒田清、大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。とりわけ大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代に社内で渡邉恒雄らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を呈した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている。
この行動は読売新聞の論説体系の統一の観点からは仕方無いものではあるが、読売新聞本来の魅力である「保守的なリベラル」というニ律背反しつつも社論は社論という絶妙なバランスに立脚した論説体系を捨てたという事で残念に思う旧来の読者が多い。
医療情報部
読売新聞は、他の全国紙にはない医療専門の取材機関「医療情報部」を持つ。同部長である前野一雄は、自身が脳動脈瘤、次いで甲状腺がんを患った経験を生かして「脳動脈瘤がある人の不安と選択」(ISBN 4-88320-246-1)、「甲状腺がんなんて怖くない」(ISBN 4-385-36190-8)を著している(後者は杉谷巌との共著)。また、「『健康常識』ウソ・ホント55」(ISBN 4-06-257370-9)で世間に伝わる「健康常識」に疑問を呈している。
中部読売の不当廉売問題
1975年にそれまで発行されていなかった中京地方(三重県伊賀・熊野地域は大阪本社の管轄扱い)向けに、中部読売新聞(現・読売中部支社)が創刊された。しかし、創刊当初は名古屋市で発行する他の一般新聞(中日新聞等)に比べ、月極の定期購読料が安かったことから、他社が「不当廉売だ」として裁判で争われる事態に発展したことがあった。いわゆる「中部読売事件」である。これがネックとなり1987年に正式加盟するまで、中部読売は全国紙系列ながらも日本新聞協会に加盟することが出来なかった。その後読売興業(後によみうりと社名変更)の支援により1988年6月に読売本体と合流した。
マスコットキャラクター
- 「どれどれ」の特長
- 「大きな眼」は、将来を見通し、先見性を持って報道にあたる読売新聞の基本方針を示している。新聞を読んでいるのは活字を大切にする姿勢を、緑色は環境を大切にする姿勢を象徴している。
- 「どれどれ」は、旺盛な探究心、好奇心を象徴する言葉である。
- 因みに、宮崎駿は読売系列の日本テレビのマスコットキャラクター「なんだろう」も手掛けた。
Jリーグのチーム表記問題
掲載四コマ漫画
発行所
- 東京本社 東京都千代田区大手町1-7-1
- 北海道支社 札幌市中央区北四条西4-1
- 北陸支社 富山県高岡市下関町4-5
- 中部支社 名古屋市中区栄1-17-6
- 大阪本社 大阪市北区野崎町5-9
- 西部本社 福岡市中央区赤坂1-16-5
- 印刷工場
各社の担当地域
- 株式会社読売新聞東京本社
- 青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県及び静岡県
- 株式会社読売新聞東京本社北海道支社
- 北海道
- 株式会社読売新聞東京本社北陸支社
- 富山県及び石川県
- 株式会社読売新聞東京本社中部支社
- 岐阜県、愛知県及び三重県(津市、四日市市、伊勢市、松阪市、桑名市、鈴鹿市、尾鷲市、亀山市、鳥羽市、熊野市、いなべ市、志摩市、桑名郡木曽岬町、員弁郡東員町、三重郡菰野町、朝日町及び川越町、多気郡多気町、明和町及び大台町、度会郡玉城町、度会町、大紀町及び南伊勢町、北牟婁郡紀北町並びに南牟婁郡御浜町及び紀宝町)
- 株式会社読売新聞大阪本社
- 福井県、三重県(名張市及び伊賀市)、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、鳥取県、島根県(松江市、出雲市、安来市、雲南市、八束郡東出雲町、仁多郡奥出雲町、飯石郡飯南町、簸川郡斐川町並びに隠岐郡海士町、西ノ島町、知夫村及び隠岐の島町)、岡山県、広島県、徳島県、香川県、愛媛県及び高知県
- 株式会社読売新聞西部本社
- 島根県(浜田市、益田市、大田市、江津市、邑智郡川本町、美郷町及び邑南町並びに鹿足郡津和野町及び吉賀町)、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県及び沖縄県
朝夕刊の別
北海道(石狩支庁、上川支庁、空知支庁、後志支庁、胆振支庁、日高支庁)、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、山口県、福岡県、佐賀県、大分県、沖縄県では、一部地域を除いて朝夕刊セット。その他の県は朝刊統合版だが、特に中部支社版のみは対象地域全域が朝刊単独(但し、静岡県向けの夕刊は中部支社で印刷しトラック輸送している)。
中部支社版の紙齢(創刊からの号数)は、2002年6月30日付までは「中部読売新聞」として創刊された時からの紙齢だったが、同年7月1日付から、東京本社の支社になったのに伴い、東京本社版と同じ紙齢になった。ちなみに、「中部読売新聞」が「読売新聞」になるまでの1988年5月31日付まで、東京本社が愛知県、岐阜県、三重県向けの地方版「中京版」を発行していた(中京版のテレビ・ラジオ欄は静岡県遠州版と共有だった)ため、実質的には東京本社発の「中京版」と、中部読売(現中部支社)の発行する「中部読売新聞」が併売された格好だった。
在籍していた著名人
関連企業・読売グループの企業・団体
株式会社読売新聞グループ本社が支配している放送事業者
ここでは、放送局の開設の根本的基準(昭和25年電波監理委員会規則第21号)第9条(いわゆるマスメディア集中排除原則)に於いて「支配」に当たる10%を超える議決権を読売新聞の持株会社である株式会社読売新聞グループ本社が有しているものとして総務省のウェブサイトに於いて公表されている放送事業者を挙げた。(太字は読売グループとして対外的に公表されている会社。)
参考文献
- 「第一篇 労働争議 第二章 主要な争議 第一節 読売新聞社の争議」『日本労働年鑑 第22集/戦後特集』1949年 法政大学大原社会問題研究所/第一出版
- 御厨貴『馬場恒吾の面目―危機の時代のリベラリスト』1997年、中央公論社
- 魚住昭『渡邊恒雄 メディアと権力』2003年 講談社 (ISBN 4062738112)
- 佐野眞一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』2000年 文芸春秋(ISBN 4167340038―上)(ISBN 4167340046―下)
- 黒藪哲哉『販売現場からの告発 新聞ジャーナリズムの「正義」を問う』リム出版新社
関連項目
外部リンク