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阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)とは、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。2005年度ペナントレース観客動員数は12球団の中で唯一300万人を超え最多。過去も含めた所属選手に関しては阪神タイガースの選手一覧を参照。
阪神タイガース
チーム名阪神タイガース
加盟団体セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度1935年
チーム名の遍歴大阪タイガース(1935年1940年途中)
→阪神軍(1940年途中~1944年
→大阪タイガース(1946年1960年
→阪神タイガース(1961年~)
フランチャイズ兵庫県大阪府
本拠地阪神甲子園球場(本拠地)
京セラドーム大阪(準本拠地)
阪神鳴尾浜球場(2軍本拠地)
収容人員甲子園‐50454人
大阪‐36477人
オーナー宮崎恒彰
親会社阪神電気鉄道
監督岡田彰布
タイトルリーグ戦:9回、日本シリーズ:1回
(優勝年度)(リーグ戦)1937秋、1938春、1944、1947、
1962、1964、1985、2003、2005
(日本シリーズ)1985

球団の歴史

戦前期

thumb|256px|right|ホームスタジアム・阪神甲子園球場で開かれる公式戦でのファンによる応援の様子

  • 1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、名古屋、大阪の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかったが、開催された3大会でタイガースはいずれも1位を逃した。松木や景浦率いる打線にエース若林といった豪華な布陣を考えれば、これは芳しくない成績であった。
  • 1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督森茂雄が解任され、石本秀一が新監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分と抜群の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。
  • 戦前戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年東京巨人に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝いた。
  • 1940年9月、戦局悪化による敵性英語の使用禁止をうけ球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

戦後期

  • 戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、翌年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入したさい、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。
  • 1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。
  • 1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。戦力の確保を目指す新球団毎日は裏切られたことを口実として、タイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。
  • セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男藤村隆男梶岡忠義白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。
  • 一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男渡辺省三小山正明田宮謙次郎藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。

2度のリーグ制覇

  • 1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更して、心機一転をはかった。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰監督がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として東京巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義ヘッドコーチが監督に就任した。
  • 1962年、藤本監督の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる(シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更)。
  • 1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。

栄光の時代

  • 1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王貞治長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年には村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。
  • 1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。試合終了後敗戦に怒ったファンが球場に乱入し、巨人の主力選手に殴る蹴るの暴行を加えるなど混乱した。
  • 1975年、吉田監督が就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデンマイク・ラインバック掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤監督は責任を取る形で辞任した。
  • 1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司西武ライオンズ竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
  • 主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、1979年以降も最下位は免れたもののチーム成績は低迷が続いた。この間、監督はドン・ブレイザー1980年途中からの中西太と監督がめまぐるしく交代するがチームは3~5位という状況であった。
  • 1982年安藤統男監督が就任。安藤時代は成績が奮わなかったが、戦力が厚みを増し1985年の日本一につながった。
  • 1985年、吉田監督が復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たすが、それを目前にした8月12日、当時の球団社長が日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。結果的にはこの大事件により、阪神ナインは一層奮起したとも言われる。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が当時のセ・リーグ記録となるシーズン219本塁打を記録し、中西清起福間納山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。1985年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し、3度目の日本シリーズ出場で初めて日本一を達成した。ちなみに西武は初優勝した1982年から90年代初頭まで幾度と無く優勝、日本一に輝くが、一方の阪神が低迷期に陥った為、西武黄金時代であった広岡、森政権の日本シリーズにおいて唯一リベンジを果たせていないのが阪神である。同年の最優秀選手(MVP)となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠を獲得するという偉業を成し遂げた。1986年には打率.389の日本新記録をマークし、この記録は現在も破られていない。
  • また、阪神は1985年の日本シリーズで西武球場では3戦(第1戦、第2戦、第6戦)全勝しており、2005年交流戦においても2連勝して20年越しでの西武球場(西武ドーム)5連勝を飾った。

低迷期

  • 日本一になった1985年からわずか1年後の1986年は、掛布の骨折と平田の負傷による戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が裏目となり、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位に。その翌年の1987年に最下位に沈むと、その後長期間にわたり成績不振がつづいた。この年のチーム成績は目を覆うほどの惨状(当時球団最多敗戦となる83敗、また最低勝率.331を記録)で、「ズームイン!!朝!」で阪神の低迷を嘆く「なんぎやなぁ」という言葉が流行したほどである。
  • 1988年、村山監督が復帰。「少年隊」トリオの和田豊大野久中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進める。しかし、バースの帰国、掛布の引退などアクシデントが重なり最下位に沈む。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振した際にバットを叩きつけた際に骨折して帰国。シーズン中から監督問題が浮上し、村山監督が辞任。
  • 1990年中村勝広監督が就任。最初の2年間は期待を裏切り最下位に甘んじるが1992年、甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったことにより、それまでほとんど実績がなかった新庄剛志亀山努の両俊足外野手と左腕・仲田幸司が大活躍し、トーマス・オマリージム・パチョレック和田豊らと共に、ヤクルトスワローズと久々に優勝争いを繰り広げたが2位に終わった。
  • 1993年以降また成績が低迷。中村監督は1995年シーズン途中で休養。
  • 1996年、藤田監督が就任。新庄や主力選手との確執によりメークドラマを果たした巨人に23ゲーム離され最下位に沈み、シーズン途中で休養。
  • 1997年に吉田監督が再復帰。しかし奈落の底に沈んだチームを再生することはできず1998年限りで辞任。
  • 1999年、「ID野球」の教祖・野村克也監督を招聘して猛虎再生を託した。野村は新庄の投手起用や、伊藤敦規葛西稔遠山奨志らの奇抜な投手交代、赤星憲広をはじめとする俊足選手の獲得、エース井川慶、若き主砲濱中治の育成、不逞選手の解雇など手を尽くし低迷脱出を図った。しかし、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、深刻な戦力不足から3年連続最下位に沈むと、沙知代夫人の脱税の責任を取って2001年シーズン限りで退団した。

猛虎復活から現在

今後の展望・課題

  • 18年ぶりの優勝を果たした2003年からの3年間で2度のリーグ優勝を果たし、「猛虎復活」を印象づけたかに見える阪神だが、近い将来に向けての大きな問題が潜んでいる。チームの戦力的・精神的支柱として活躍する下柳・矢野・金本が2006年末時点で38歳と多くを望めなくなる年齢に差し掛かっており、また37歳の桧山・片岡は既に引退間近の末期状態であり、彼らに代わる戦力の台頭が待たれている。下柳の後継者に関しては「球界トップクラスの投手陣の層の厚さ」と言われるだけに台頭してくる可能性は高いが、反面野手の層の薄さから何人かの選手が調子を崩したりあるいは離脱するとリカバリーが効かないという弱点が2006年シーズン中も露呈している。特に捕手という重要なポジションを担う矢野や怪我で苦しみながらも4番打者としての重責を全うする金本の後継者については、それぞれの後継者と目されている浅井良濱中治がどこまで成長するかにかかっている。
  • 若手投手が主体となっているため、将来展望からみても一見万全に見える投手陣ではあるが、ここにも大きな落とし穴が潜んでいる。投手陣は井川・下柳を除けば安藤優也や藤川・久保田をはじめコントロールよりも球威で押し切る力投型が多い。これは、球威が落ちれば成績も比例して落ちるタイプでもあり、彼らが5年後10年後も好成績を残せるかどうかは不透明である。このことを踏まえるとドラフトにおいて本格派ばかりに重視し技巧派に見向きしないことは問題である。
  • また赤星入団以降の阪神は5年間で440盗塁を記録しているが、その過半数にあたる250盗塁を赤星1人で稼いでいる。ところが2003年以降のチーム盗塁における赤星の盗塁の比率を見ると、2003年53.0%(チーム115、うち赤星61)、2004年66.7%(チーム96、うち赤星64)、2005年76.9%(チーム78、うち赤星60)と、年々機動力は赤星頼みになっているという傾向が見えてくる。これは万が一赤星が怪我で戦線離脱してしまうと阪神の機動力はないに等しくなることを表しており、現在のレギュラーで赤星に続く2番打者として出場する機会の多い藤本や鳥谷敬の奮起、2005年にウエスタン・リーグ盗塁王となった赤松真人の台頭が待たれる。

チーム成績・記録

  • リーグ優勝 9回

(1937年秋~1938年春、1944年、1947年、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)

  • 日本一 1回

(1985年)

  • Aクラス 43回

(1936夏~1940年、1942年~1948年、1950年~1960年、1962年~1970年、1972年~1973年、1975年~1976年、1981年~1982年、1985年~1986年、1992年、2003年、2005年)

  • Bクラス 27回

(1941年、1949年、1961年、1971年、1974年、1977年~1980年、1983年~1984年、1987年~1991年、1993年~2002年、2004年)

  • 最多勝利 87勝(2003年、2005年)
  • 最多敗戦 84敗(1995年)
  • 最多引分 13分(1976年)
  • 最高勝率 .829(1938年春)
  • 最低勝率 .331(1987年)
  • 最多連勝 14連勝(1937年、1946年)
  • 最多連敗 12連敗(1998年、1999年)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1937年春、1973年)
  • 最大ゲーム差 37.5ゲーム(1987年)
  • 最多本塁打 219本(1985年)
  • 最少本塁打 1本(1944年)
  • 最高打率 .345(1936年夏)
  • 最低打率 .197(1941年)
  • 最高防御率 1.53(1944年)
  • 最低防御率 4.79(1978年)

チーム特徴

  • ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。このさい、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。松原は大阪の姉妹都市であるデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしてこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を正しく発音すると「タイガーズ」であるが、正式名称は片仮名表記であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的であった。
  • 球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である(ちなみに西宮市を所轄する兵庫県の県民局は「阪神南県民局」である)。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠としたこともあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
  • 球団名を一文字で表記するときは一般的に「」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるべきだが、かつて阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。1993年に横浜大洋ホエールズ(「洋」)が横浜ベイスターズとなって以降は、現存するプロ野球チームの中では略称に最初の文字を使わない唯一の球団となっている。
    またプロ野球の歴史に関して記述した本の中では球団名が「大阪タイガース」だった頃にも球団名を「大阪」ではなく「阪神」としているものもあるが、これは一文字で表記した場合に「大」だと大洋・大映大毎太平洋クラブなど、また「阪」では前述のように阪急と混同する可能性があるためのやむをえない措置である。
  • 球団歌は『阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。空をかける太陽と、輝く選手達を掛けて覇気を歌い上げる見事な歌詞と美しい曲調でしられ、阪神ファンのみならず、プロ野球ファンの間で最も有名な応援歌とされる。特に阪神地域では、野球に興味が無かったり、他球団のファンであっても歌うことができるほどである。歌詞の冒頭をとって六甲颪(ろっこうおろし)と呼ばれる。
  • 球団マスコットは次の2人である。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。初期のトラッキーには初登場の年を表す背番号があったが、背中には名前を書くようになり、初登場の年は胸番号に移行した。なお、トラッキーとラッキーは親会社の阪神電気鉄道およびその関連企業のマスコットとしても使われている。
    • トラッキー(TO-LUCKY) - 胸番号1985
    • ラッキー(LUCKY) - 胸番号1994
  • ホームゲームでは本拠地である阪神甲子園球場を使うことが多いが、1948年フランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。またフランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合も行った。さらに2005年から2007年までの3年間は、大阪ドーム2006年7月1日より「京セラドーム大阪」)を準本拠地として使用する。甲子園球場以外での主催試合でも関西を中心とした西日本を主にしていることが特徴である。
  • 選手寮は兵庫県西宮市の虎風荘であり、隣接するファームの本拠地阪神鳴尾浜球場と合わせて「タイガースデン(Tigers Den、虎の穴)」と称する。当初は、虎の穴とガーデンとを掛け合わせて「タイガーデン(Tiger Den)」としていたが、タイガー魔法瓶との商標権の関係で、2003年末に改称した。
  • 監督はチームの生え抜き選手が就任することが多いが、優勝から遠ざかっていた1960年代には藤本定義、低迷が続いた近年は星野仙一といった他球団の監督として実績を残した人材を起用し、いずれも優勝に導いた。
  • 実は、地元関西の球団であるにもかかわらず大阪府出身の監督は2003年まで歴代で一人もいなかった(ただし兵庫県村山実安藤統男京都府金田正泰吉田義男野村克也和歌山県藤田平がいる)が、2004年岡田彰布が監督に就任したことで球団創設70年目にしてようやく大阪府出身の監督が誕生した。尚、奈良県滋賀県出身の監督は未だに誕生していない。
  • セントラル・リーグでは唯一の関西の球団である。1リーグ時代には南海ホークス阪急ブレーブスなども関西の人気チームであったが、2リーグ分立後は読売ジャイアンツの試合は常にテレビ中継が行われるようになり、同一リーグのために日本シリーズ交流戦以外でも読売と対戦するタイガースは、関西の野球ファンの人気を一身に集めるようになった。そのため、読売新聞系の「スポーツ報知」を除く関西版のスポーツ新聞の1面を飾ることが多く、近年では在阪のテレビやラジオでも何が何でも阪神戦をやるようになった。この結果関西では、阪神に人気が集中し近鉄球団の経営悪化、オリックスとの球団統合に到った弊害を生み出している
  • プロ野球球団のなかでもマスコミに対しては非常に厳しい扱いをしていると言われている。過去に在阪放送局としては巨人主体をしていた頃の毎日放送やバッシング報道をしたスポーツニッポンの出入り禁止にした経緯がある。近年では村上ファンド問題においてマスコミが一方的に村上ファンドを非難する一方で非のあるはずの阪神側のバッシングは全く持って皆無だった。2004年の球界再編問題でも在阪放送局はそんなことを恐れてか、阪神タイガースとの因果性を全く言及しなかった。いくら視聴率が下がっても(2006年現在平均視聴率は15%前後である)在阪放送局が阪神戦をやる理由にはファンが多いことはもとより球団側からの制裁を恐れているためだと考えられる。
  • 読売と阪神の設立当時の名称は東京ジャイアンツと大阪タイガースであり、「アンチ東京」という意味で阪神タイガースは関西を代表する団体といえる。
  • ドラフト会議においては、長期的視野を要する高校生よりも大学生、社会人選手を進んで取る傾向にあり、逆指名制度、自由獲得枠、希望選手枠といった即戦力を獲得するための制度を最も積極的に使っているため、選手の平均年齢が比較的高い。しかし、2004年ドラフト会議において指名した辻本賢人は、ドラフト会議史上最年少の15歳であり、球界関係者を驚かせた。
  • 1985年10月16日関西テレビ放送が放映した阪神戦(明治神宮野球場でのヤクルト戦で、21年ぶりの優勝が決まった試合)の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率である。

阪神ファン

  • ファンの数が多く、かつ熱狂的なことで知られる。阪神ファンは関西を中心として全国規模で存在しており、海外にも多くのファンがいる(もっとも、2004年の中日優勝記念の本にも世界の中日ファンが掲載されているが)。海外でのファン活動として、現地人によるホームページも存在し、母国在住のオーストラリア人やアメリカ人が阪神タイガース関連のホームページを持っているなどの例がある。在留経験のある外国人が応援に感動・共感し、阪神ファンになった例も多い。ビジターでの横浜戦やヤクルト戦では、阪神ファンがホームチームのファンより多くなることが結構ある。
  • また、阪神ファンの熱狂的な様子を示すエピソードとして道頓堀川への飛び込みがしばしば例に挙げられる。1985年のリーグ優勝・日本一や2003年のリーグ優勝の際、興奮したファンが次々と道頓堀川に掛かる戎橋から飛び込んだ。ヨーロッパでは2003年にパリセーヌ川や、ロンドンテムズ川に飛び込んだ現地在住の阪神ファンもいた。ただし、道頓堀川は衛生状態が極めて悪く、飛び込み行為自体にも危険が伴う。このため、2005年に阪神がリーグ優勝を果たした時には橋周辺にフェンスをめぐらして飛び込みを防いだ(後述)。
  • しかしそれだけファンの熱狂度が高い分だけチームが負けた時の反動は大きく、大きなトラブルだけでも以下のようなものが野球ファンの間で知られている。
  1. 1973年、最終戦で優勝を逃した際、不甲斐ない試合に激高したファンがグラウンドになだれ込み、対戦相手の選手らに暴行を働いた(後述)。
  2. 1992年、甲子園球場でのヤクルトとの優勝決定戦の際、ヤクルトが勝ち優勝した際、球場内で「帰れコール」が起こった。
  3. 2001年、開幕戦の巨人戦(東京ドーム)で3-17と記録的な大敗を喫した試合、最後の打者がレフトフライに打ち取られた時に捕球態勢に入った清水隆行に対し、レフトスタンドの阪神ファンからメガホンが投げ込まれた。
  4. 2003年、それまで18連勝と好調だった横浜戦で敗戦した際、9回裏3アウト目となるレフトフライを捕球した多村仁めがけて一部の阪神ファンがメガホンを投げつけるという行為を働いた(多村は「本当に危ない。怪我するかと思った」とコメントしており、横浜ファンのみならず阪神ファンからも「あんな奴らに阪神を応援する資格はない」と糾弾の声が上がった。また星野仙一監督も「ああいうことをするヤツは袋叩きにせないかん。こんなことやったら甲子園で胴上げはやらん!」と激怒した。なお、同じ球団を応援する者がメガホン投げを行ったことに心を痛め、本人はメガホン投げをしていないにもかかわらず横浜ファンに謝罪したファンもおり、結果として阪神ファンに暴力的なイメージのみが定着する・横浜ファンとの確執が生じるようなことはなかった)。
  5. 2005年の日本シリーズで、「千葉ロッテマリーンズのファンと口をきいた」という理由でそのファンに対し暴行、逮捕される騒ぎとなった。
  6. この他、東京ドームでの対巨人戦で勝利した際、JR中央・総武緩行線水道橋駅、電車内でも勝利を祝い、野球ファンや野球に興味の無い一般人とのトラブルも発生している。同様のトラブルは横浜戦直後のJR根岸線関内駅でも発生している。また甲子園で勝利した際には、甲子園駅のホームで阪神電車に乗って帰ろうとする相手チームのファンに対して「降りろ」コールを行うファンの姿も目撃されている。
  • このため球団側もイメージの低下を恐れて甲子園への缶・瓶類持ち込み禁止チェックや立ち見応援の規制呼びかけといったマナーの向上に熱心になっており、一部の良識あるファンを発端としたマナー向上の呼びかけも展開されている。また、優勝した2003年頃からファン層が大きく変わった事によりライト等の外野席でも座って応援する現象が生じ、外野席=立ち見という観念が当然な古参ファンとのバラツキが目立つようになった。このため立ち応援をしたいというファンの為に「立ち応援席」を求める声も少なくない。
  • ファンの応援スタイルは、ヒッティングマーチを歌いながらメガホンをたたくというオーソドックスなものが浸透している。こうした応援は1970年代から1980年代にかけて、内野席の応援団が始めたものである。後に、大規模な応援団組織が次々と作られ、その中心を外野席に変えた。応援時の服装は様々であるが、レプリカユニフォームや法被をはじめ、黄・黒・白・グレーとピンク(女性用レプリカユニ)のいずれかを使ったものが主である。
  • 現在の応援団組織の名称は「阪神タイガース私設応援団」である。以前は「中虎連合会」と「阪神タイガース私設応援団」という2つの団体が応援を統率していたが、中虎連合会の幹部がヒッティングマーチに関する著作権法違反容疑で逮捕されたことなどもあり、私設応援団のみの応援となった。
  • ヒッティングマーチはレギュラークラスの選手のみに1人1曲ずつ作られている。かつては引退した選手のヒッティングマーチの歌詞を変更することで、控え選手のヒッティングマーチとしていた。しかし著作権法違反容疑で中虎連合会の幹部が逮捕されたことのあおりを受けて、桧山進次郎矢野輝弘の曲を除いてこれらの選手用ヒッティングマーチを廃止した(ヒッティングマーチ管理委員会を参照)。控え選手には全員共通の「ヒッティングマーチ2番」を使用している。また、捕手のヒッティングマーチも「ヒッティングマーチ2番」を使用することが定着していたが、2004年に矢野の希望によってオリジナルのものを作った(しかし旧応援歌スタイルへの復活を求めるファンの声もあるのが現状で、急遽変更された新応援歌やシーズン途中での新応援スタイルの増加等で応援自体に全体的なバラツキが現象化されていることが理由で応援団自体への不満の声も少なくない)。外国人選手への応援の際は、最初にファーストネームを「レッツゴーアンディ」(シーツ)のように連呼するのも特徴である(2002年以降?)。
  • 相手投手がノックアウトされて降板する時、ホームでは「蛍の光」を合唱するが、ワンポイントによる降板など、仕事をきっちり果たして降板する時も歌われたため、これについて阪神ファンからも「一生懸命試合をしている相手チームの選手に対して辛辣すぎる。相手を馬鹿にしている」との意見もあり、賛否両論を呼んでいる。また球団OBの江夏豊2006年6月5日付のデイリースポーツ紙のコラムで「『蛍の光』は相手投手を侮辱するもので、これを喜んで歌う観客は阪神ファンとは呼べず、観戦する資格はない」と主張。これを受けたヒッティングマーチ管理委員会が、新たに同点時及び阪神劣勢時の相手投手交代時に演奏する「オペレーションビクトリー」なるヒッティングマーチを作製、同年7月28日の対東京ヤクルト戦より演奏されることになったが、引き続き「蛍の光」は阪神優勢時に相手投手がイニング途中でKO降板した際に演奏されるため(1点差リードで相手投手が降板したときは「蛍の光」を歌わないこともある)、結果的に完全撤廃には至らなかった。このため「蛍の光」論争は続きそうである。
  • ラッキーセブンの攻撃時には、ファンファーレの後(ビジターでは六甲おろしを歌った後)ジェット風船が打ち上げられるのは有名だが、直前の相手の攻撃が長引いてしまうと、怒りで待ちきれずに打ちあげてしまうことがある。

球団の伝統

  • 時代にあわせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、タイガースは常に伝統を重んじるとして大きな変更が行われないのがその伝統である。
  • 球団名「タイガース」は、戦中の英語が使用できなかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。
  • 球団歌、『阪神タイガースの歌』(六甲おろし)は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』としてつくられたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞中の感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、歌詞を改めた後もそのまま残った。
  • 阪神甲子園球場は球団結成時からの本拠地であり、現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。もともとは高校野球で使用することを目的として造られた球場だが、甲子園球場を傘下に持つ阪神電鉄の球団ということでタイガースの本拠地となり、現在にいたる。
  • プロ野球最初の公式リーグ戦である1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加しており、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体がかわらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。テレビ中継などでは阪神巨人戦は「伝統の一戦」と紹介される。
  • タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に広田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。また、現在では、開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統的な行事となっている。

ユニフォームの変遷

  • 1936年1940年 球団創設時は「Tigers」2種類、「OSAKA」1種類のユニフォームを使用。縞帽子はこの頃から登場している。ロゴは黒で縁取りは黄色。
  • 1940年~1944年★ 戦争の悪化によりロゴを「阪神」に変更。1944年からは国防色の採用が義務付けられ、グレーの縦縞が廃止される。ホーム用はラインを廃止(袖の猛虎マークは消滅しなかったが戦後に入ってからいったん消滅している)。
  • 1945年1948年 戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
  • 1947年1951年 縦縞なしの前立てラインを採用。2リーグ分裂後も使用されたが1951年夏で廃止。
  • 1948年~1949年★ 前立てラインのユニフォームの生地に濃紺を採用。ダイナマイト打線崩壊で消滅。
    • このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったこともあって老若男女問わずファンの認知度は高い。
  • 1951年~1953年 オールスターを境にラインを廃止したユニフォームが登場。ホーム・ビジターともに同一スタイル。
  • 1953年~1960年 伝統の縦縞が復活。また、ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。この間1958年には縁取りがなくなり、1960年には胸番号が付けられる。
  • 1961年~1965年 球団名改称によりビジター用ユニフォームを「HANSHIN」に変更。1962年夏から胸番号は丸型に。
  • 1965年~1973年★ 袖・パンツに太いラインが登場。1970年から虎のワッペンが変更され、背中に名前が入る。1972年にHTマークを変更。Tが白でHが黄色となる。
  • 1974年1975年★ それまでの黒に加え黄色を使用。ビジター用は1年間のみの使用だったが、1975年からギザギザラインが登場し、派手な印象となった。このユニフォームからニットで作られるようになる。
    • ギザギザラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。このラインの由来には「の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。
  • 1975年~1978年★ ホーム用にギザギザラインが登場。また、ビジター用がグレーからブルーに変更される。ブルーの生地は1983年まで使用された。なお、2006年の交流戦での阪神主催試合では、この復刻版ユニフォームを使用。
  • 1979年1981年★ プルオーバー・タイプ初登場。黒と黄色のノーマルラインに変更。同時にホーム用からパンツのラインが消え地味な印象となった。なお、2005年交流戦での阪神主催試合と2006年の交流戦のビジター用では、この復刻版ユニフォームが使用され、交流戦終了後にチャリティーオークションに出された。
  • 1982年1987年 伝統のスタイルと縞帽子を復活。また、1984年からホーム用の背番号の書体が角型となる。同時にビジター用もグレーの縦縞となった。
  • 1988年1990年 ボタン・タイプのユニフォームが登場。ビジター用のHTマークが白から現在の銀色に変更される。
  • 1991年2000年 1985年優勝時のプルオーバー・タイプが復活。ホーム用の縞帽子が1999年限りで廃止され、2000年からビジター用の黒帽子が採用された。
  • 2001年~ ボタン付きプルオーバータイプ(ボタンが外れるのは上から数個、後の残りはダミー)に変更。ビジター用が大きく一新されヤンキースのスタイルとなった。ビジター用の左袖に付いた虎のマークは当初モノトーンだったが、1年でカラーに戻った。背中のネームも同時に廃止されるが2003年に復活。2004年から球団のスポンサー企業である上新電機のロゴ『Joshin』が右袖に入るようになった。
  • 年代の後に★がついているものに関しては、阪神タイガース公式サイト内・T-SHOPと以下の阪神タイガースショップにて「クラシックコレクション」として復刻版ユニフォームが販売されている。
  • なおデザインの詳細は阪神タイガース公式サイト内・綱島理友のユニフォーム物語を参照のこと。

ユニフォーム等のスポンサー

セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。

歴代本拠地

※2005~2007年は、兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄吸収合併したことによるダブルフランチャイズ問題の暫定処置として、大阪ドーム(2006年7月1日から「京セラドーム大阪」に変更)を準本拠地として使用することが認められている。このため、高校野球で阪神甲子園球場が使えない時期などには、大阪ドーム(京セラドーム大阪)で主催試合を行う。

2軍の本拠地は阪神鳴尾浜球場(同県同市)を使用している。尚、阪神甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、2軍の選手も1軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から1軍本拠地に行くことができ非常に利便性が高い。12球団の中でも1軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は西武ライオンズの次に短く、互いの球場を徒歩で行き来できるのも12球団の中では阪神と西武の2球団のみである。

歴代監督

※太字は優勝達成監督を表す。登録上の監督ではなく、監督代行など実際の指揮権を持っていた者を記す。

  • 森茂雄(1936年春~1936年夏)
  • 石本秀一(1936年秋~1939年)
  • 松木謙治郎(1940年~1941年【第1次】)※1
  • 若林忠志(1942年~1944年【第1次】)
  • 藤村富美男(1946年【第1次】)※2
  • 若林忠志(1947年~1949年【第2次】)
  • 松木謙治郎(1950年~1954年【第2次】)
  • 岸一郎(1955年)
  • 藤村富美男(1955年~1957年【第2次】)
  • 田中義雄(1958年~1959年)
  • 金田正泰(1960年~1961年【第1次】)※3
  • 藤本定義(1961年~1965年【第1次】)
  • 杉下茂(1966年)
  • 藤本定義(1966年~1968年【第2次】)
  • 後藤次男(1969年【第1次】)
  • 村山実(1970年~1972年4月21日【第1次】)
  • 金田正泰(1972年4月22日~1974年【第2次】)
  • 吉田義男(1975年~1977年【第1次】)
  • 後藤次男(1978年【第2次】)
  • ドン・ブレイザー(1979年~1980年)
  • 中西太(1980年~1981年)
  • 安藤統男(1982年~1984年)
  • 吉田義男(1985年~1987年【第2次】)
  • 村山実(1988年~1989年【第2次】)
  • 中村勝広(1990年~1995年7月23日)
  • 藤田平(1995年7月24~1996年9月11日)
  • 柴田猛(1996年9月12日~1996年末)
  • 吉田義男(1997年~1998年【第3次】)
  • 野村克也(1999年~2001年)
  • 星野仙一(2002年~2003年)
  • 岡田彰布(2004年~)
※1 ここから阪神
※2 ここから大阪タイガース(第2次)
※3 ここから阪神タイガース

ミスタータイガース

球団創設時から在籍し、1940年代後半に不動の4番打者となった藤村富美男をたたえてファンが付けた呼称。藤村の引退後に何人かの選手が後継者として同様に呼ばれた。一般的には上記の4人を指す。

ミスタータイガースの定義

  • ミスタータイガースという呼称は、狭義には藤村のみ、広義には景浦將小山正明吉田義男江夏豊ランディ・バース岡田彰布金本知憲などを指すこともあり、その定義は曖昧である。特にトレードで西武に移籍した田淵に関しては、「引退するまでタイガース一筋でなければ、ミスタータイガースではない」と主張して除外するファンと、「田淵は自分の意思でタイガースを出たわけではない」として擁護するファンとで意見が真っ向から対立している。トレード以前にはほとんどのファンが3代目と認めていたものの、移籍後には除外するファンが多数派となった。しかし2002年に田淵が星野仙一監督の下で打撃コーチとして復帰して以降は「田淵は3代目である」というファンが多数派となった。また掛布氏も自身の公式サイトにおいて、ファンからの質問に答える形で、田淵氏はミスタータイガースであるという見解を示している。よって4代目に掛布となる。
  • 背景には、一般社会における雇用形態の変化もあるものと思われる。かつては終身雇用を前提とした企業社会であったが、近年では中途採用・契約社員・フリーターといった雇用形態も珍しくなくなった。それに伴って、タイガース一筋であることに価値を見出すファンの意識が昔よりも薄くなってきている。とはいえ、現在でも生え抜き意識が強いことに変わりはない。
  • 濱中治は4代目の掛布から5代目候補として指名されており、マスコミからも「ミスタータイガース候補」等と紹介されることが多いが、故障で本格的な活躍をするに至らず、今後の展開が注目される。金本知憲は、2度の優勝に貢献した中心的選手であり、移籍選手であるという点を差し引いても、(広義には)ミスタータイガースと呼ぶにふさわしい活躍を見せている。また2005年に藤村を抜いて球団記録となる147打点を記録した今岡誠や、井川慶藤川球児鳥谷敬久保田智之らにも期待される。

永久欠番

タイガースにおいて、その功績をたたえて永久欠番が認定されているのは上の3名のみである。
球団初の永久欠番を与えられた藤村富美男は球団創設時に入団し、兵役でチームを抜けた時も欠番となっていたため、藤村以外にタイガースで#10をつけた者は存在しない。日本プロ野球において、ただ1人だけが付けた永久欠番は、藤村の#10だけである(現存するチームにおいて。なお2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスを除く)。「藤村の前に藤村なし、藤村の後に藤村なし」といわれるゆえんであり、彼がタイガース最大の功労者である証であろう。
吉田義男の背番号#23については、球史に残る名遊撃手の番号を付けるに値する実力を持った選手がいないとして、吉田が引退した1970年以降欠番となっていたが、監督としての優勝への貢献などが評価され、1987年に永久欠番となった。
1993年に所属した松永浩美が背負った02番についても(入団当初は2番だがシーズン途中から02番になる)、現在のプロ野球連盟が0と00を除く0番台の番号を(選手の背番号としては)使わない方針であるため、今後使用されることはないと考えられる(なお、西武ライオンズではチームスタッフの背番号として0番台の背番号が使われているそして、マンガドカベンプロ野球編では、マンガなので、実在の背番号と重ならないように01、02、03、04、05が使われている)。
この他、正式な永久欠番ではないが、星野仙一#77についても、タイガースを建て直し2003年にリーグ優勝を果たした功労者として称えるため、事実上欠番とすることを当時の球団社長が述べている。

ノーヒットノーラン達成者

阪神には球団史上9人の投手がこれまでにノーヒットノーランを達成している。

年月日選手名スコア相手球場
1940年8月3日三輪八郎1-0巨人大連
1946年6月16日呉昌征11-0セネタース西宮
1948年8月24日梶岡忠義3-0南海神宮
1952年5月7日真田重男12-0広島甲子園
1965年6月28日G.バッキー7-0巨人甲子園
1973年8月30日江夏豊1-0中日甲子園
1992年6月14日湯舟敏郎6-0広島甲子園
1998年5月26日川尻哲郎2-0中日倉敷
2004年10月4日井川慶1-0広島広島
  • 特に江夏のケースは11回裏に自らサヨナラホームランを放ちノーヒットノーランを達成するという名勝負となった。延長でのノーヒットノーランはこれが唯一の記録である。
  • 完全試合についてはまだ誰も達成していない。

40年以上ノーヒットノーランを許していない唯一の球団

阪神は1965年10月2日の広島戦で外木場義郎にノーヒットノーランを許したのを最後に、現在に至るまで相手チームの投手にノーヒットノーランを許していない(更に詳しく言えば、無安打試合そのものがそれ以降一度もない)。このように、40年以上にわたって一度も無安打試合がないのは13球団(近鉄も含む)を見渡しても阪神だけでありある意味快挙であるともいえる。

ダイナマイト打線

タイガースの代名詞であり、日本初の打線ネーミングである。1946年、破壊力抜群のタイガース打線を形容して、日刊スポーツ(同年創刊された我が国初のスポーツ専門新聞)の記者が命名し、1947年の優勝時に広まったが、その後、強力な打線がタイガースで結成されるたびに用いられる。便宜上、1940年代後半を第1次、1985年を第2次、2003年を第3次という。また、命名前であるため、当時はダイナマイト打線と呼ばれてはいなかったが、1930年代後半を第0次と呼ぶこともある。タイガースの打線は、一般的に「猛虎打線」と呼ばれるが、「ダイナマイト打線」は打線が特に強力であった時期にのみ使われる。

歴代の球団歌

キーワード

いろは順背番号とポジション順背番号

  • 1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号であった18、19にそれぞれ変更している。エース若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
  • 1950年、リーグが分立し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1~8が投手、9~11が監督、助監督、主将、12~14が捕手、15~20が内野手、21~24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9~11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。後に背番号10は藤村の永久欠番となった。

不吉な背番号11

  • 1959年関西大学から入団、大卒入団投手としては名球会入会資格者最多となる通算222勝をマークし1972年限りで引退、背番号11を自らの手で永久欠番にした村山実は入団した際「背番号11は過去に故障した選手がいるからやめとけ」と周囲から言われたというエピソードがある。というのも村山以前の背番号11は故障を含め何らかの形で必ず不幸な目にあっていて、故に不吉な番号といわれていたからである。
  • 背番号11を最初につけたのは藤井勇1935年1939年1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も応召され、戦後はパシフィックに移籍したためタイガースに復帰出来ずに終わっている。2代目の野崎泰一1946年1949年)は満足な成績を残せない所に肩痛に襲われ最後の年に背番号を3に変更する羽目に。3代目の御園生崇男1950年のみ)は入団以来つけていた15からの変更だったが前年に体調が悪化していたのがさらに悪化したため翌年元に戻す羽目に。4代目の三船正俊1952年1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖(打たれやすい)のが仇となって東映フライヤーズにトレードされた。5代目の山中雅博1955年のみ)は50から変更した途端体力不足に見舞われ退団。前任=6代目の内司正弘1957年のみ)も40から変更した途端に退団している。変更した途端に不幸に見舞われた体験を知る御園生は大学での村山の先輩にあたる。そのためか村山に「自分がつけていた背番号15を譲るから絶対に11はつけるな」と説得したが村山は「すみません。自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。村山は自身の活躍によって永久欠番としたが災いは自身に降りかかった。投手として致命傷の血行障害、選手兼任監督を引き受けるがジレンマに悩み返上、指揮権返却の話が反古にされて引退。1988年には監督として復帰するも低迷から脱却できずに2年で退団、さらに1995年には自宅が阪神大震災で全壊と不幸が続き、1998年に61歳の若さで亡くなっている。

伝統の一戦・阪神vs巨人戦

概要

  • 阪神と巨人の対戦カードを「伝統の一戦」と呼ぶ。創立当初の阪神は、阪神電鉄のライバル会社の阪急電鉄の球団である阪急を最大のライバルとしていたが、毎年のように巨人と優勝争いを行い熱戦をみせたため、対巨人戦はこう呼ばれて特別視されるようになった。「西の景浦、東の沢村」「職業野球は沢村が投げて、景浦が打ってはじまった」と呼ばれて戦前の野球ファンの注目の的となった豪腕沢村栄治と強打者景浦將の対戦にはじまり、ミスタータイガース村山実とミスタージャイアンツ長嶋茂雄、奪三振王江夏豊と本塁打王王貞治といった幾多の名勝負を生んだ。しかし近年はどちらかのチームが一方的に強い情勢が続いているため、徐々に使われなくなっている。

年度優勝決定戦と太平洋ホームラン

  • 1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位の巨人の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
  • 同年12月洲崎球場で行われた年度優勝決定戦では、1勝2敗で惜敗したものの、景浦將が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。特に第1戦で巨人のエース沢村栄治から放った場外ホームランは東京湾に落ち、「太平洋ホームラン」と呼ばれた。当時のボールは本塁打さえ滅多に出ないほどに飛びにくいもので、その上景浦が打ち返した球が魔球として知られる沢村の三段ドロップだったことから、この場外ホームランは多くの野球ファンを驚かせた。
  • 1936年秋の優勝決定戦では破れたものの、翌1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チーム・ジャイアンツとの年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村栄治を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに、翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗ると4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
  • なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。

世紀の落球とV9

  • 1973年江夏豊上田二朗の両エースや主砲田淵幸一らの活躍により、東京オリンピックが開催された1964年以来9年ぶりの優勝に向けて、8連覇中の巨人と激しい優勝争いをしていた。そのような状況下で、8月5日の巨人戦、9回2死から池田祥浩がセンターフライを落球して逆転負けを喫した。この年、阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを世紀の落球と呼ぶようになり、池田が戦犯のごとく扱われた。実際には、グラウンドの状態が悪かったことから足をとられて転倒してしまっただけであり、特別ひどい守備だったわけではない。この年、池田は勝負強い打撃と好守でチームの優勝争いに貢献した(詳しくは池田の項目を参照)。その後、8月30日に江夏のノーヒットノーラン中日を事実上優勝戦線から脱落させたが、翌8月31日には巨人が首位に立った。10月10日の後楽園での巨人-阪神戦では、田淵が倉田から逆転満塁ホームランを放ち、江夏が最後を締めて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えた。翌10月11日の同カードは、一時は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
  • 残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまでせまっていた10月20日の中日戦(中日球場(現・ナゴヤ球場))では、中日キラー上田の先発が予想されたが、金田正泰監督は裏をかいて先発投手に江夏を指名した(この時、オーダー表を提出する役目を担っていた当時の岡本伊三美ヘッドコーチは、先発投手の名前に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田監督に念押ししている)。しかし、江夏が木俣達彦にホームランを打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一(後の中日、阪神監督)らに抑え込まれて2-4で敗戦した(星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、硬くなった阪神打線はこれを打てなかった。詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。この試合中、中日球場のそばを通る新幹線に巨人ナインを乗せた「ひかり」が通り過ぎた話は有名である。ナインの一人はスコアボードを見ようと頑張ったが果たせず、名古屋駅到着時に巨人ファンが試合経過を知らせ、それを聞いて車内のムードが明るくなったと伝えられている。こうして、10月22日(本来は21日であったが雨天で順延)の対巨人最終戦で勝ったチームが優勝ということになった。
  • 48000人の大観衆を集めたこの試合の先発であった上田は極度の緊張感に襲われ、長嶋抜き(10月11日の試合で負傷)の巨人打線に5安打を集中され2回持たずにノックアウト。打線も高橋一三の前に1点すら奪えず、藤田の2安打、野田とカークランドのそれぞれ1安打の計4安打に終わり、田淵はノーヒットに終わった。また1人も二塁を踏むことはなかった。上田の後に投げた権藤正利古沢憲司らも滅多打ちにされ、5回までに毎回得点で8点を奪われた。阪神は0-9でまさかの大敗を喫し、巨人のV9を許した。午後4時18分、最後の打者・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦と不甲斐なさ過ぎる阪神に怒り、7回辺りからベンチ上などで暴れたり危険物を投げ飛ばしていたりしていたファンが暴徒と化し、一塁側スタンドから乱入したファンは巨人ベンチに襲い掛かった。選手は試合終了と同時に胴上げもせずダッシュでベンチ裏に退散したが、王貞治は下駄で殴られ、森昌彦はキャッチャーマスクを盗られた。さらに付近にいた警察官やカメラマンが怪我を負った。ファンの怒りはその後も収まらず、三塁側スタンドでは巨人応援団をビンで襲撃したり集団リンチするなどした。近所の甲子園署から200人、また兵庫県警の機動隊が70人出動し、県警からの要請で金田がファンの前で「お詫び」をするおまけまで付いた。県警に追い散らされたファンは「帰れ!」コールを浴びせかけ、最後は阪神選手を翌日までロッカールームに缶詰めにした(後藤和昭談)。
  • この「世紀の試合」はテレビはよみうりテレビにより日本テレビ系列(解説・村山実)で、またラジオは数局が中継していたが、途中から実況席にも危険物などが投げ込まれ、500人ほどのファンが襲い掛かってきた。テレビはマイクコードを抜かれたため、中継の最後の方では荒れ狂う甲子園のグラウンドの映像のみとなってしまい、放送終了後テレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材はファンによって徹底的に破壊されてしまった(ちなみによみうりテレビは犯人が誰か特定できなかったため弁償請求できなかったという。またこの暴挙のため優勝の瞬間は鮮明なVTR映像では残っていない)。観客席からの蛮行はそれにとどまらず、村山に対して「阪神OBのくせに巨人の肩を持ちやがって」という言いがかりを付ける者もいた。このとき朝日放送ラジオで実況していた植草貞夫と解説の根本陸夫は、心あるファンが差し入れた座布団などを被って辛うじて実況できたと後に語っていて、当時植草の同僚だった中村鋭一1985年、「週刊ベースボール」の阪神日本一記念特別号でのインタビューで「『おはようパーソナリティ中村鋭一ですの局やから襲ったらアカン!』と阪神ファンの誰かが襲撃行動を阻止していた」と明かしている。また地元UHF局のサンテレビの放送席はタイガース戦の中継を熱心に行っていたことから「サンテレビはうちらの味方や」とファンが協力して守ったため襲われる事はなかったが、それ以外の局の放送席は軒並み暴徒と化したファンに襲われた。なお当時の映像は映画フィルムに転写したものが残っている。
  • 阪神は「優勝するもの」と想定して、田淵を起用した日本シリーズ用のポスターもあらかじめ大量に印刷していたが(制作時点ではパ・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神-パリーグ優勝チーム」という表記だった)、当然お蔵入りとなった。もっとも、阪神ファンの有名人による目撃談があることから、ごく少数のみ早々と阪神電鉄の駅などに貼られていたという説もある。また、優勝記念に作られたマッチも外に配れず、阪神電鉄の保養所で使われていた。
  • 一方、江夏は自伝「左腕の誇り」の中で、「阪神の長田球団社長から10月20日の中日戦の前日に呼び出され、明日の中日戦には勝つなと八百長を指示された」と記している。当時は広告収入という考えがなく、阪神や巨人のような人気球団は優勝したところで大して収入は増えないばかりか、選手の年俸が上がるため利益は下がるという現象が起きていた。そのことを踏まえると現実味のある話だが、それではなぜポスターが製作されたのかという矛盾が生じる。もし八百長指示が事実だったとしたら、考えられるのは阪神本社と球団との意見の不一致であろう。この話は世間に伝わり「阪神は優勝戦線に最後まで残って結局優勝できないという結果を望んでいる」という噂がたった。現在では広告収入が得られるようになったのでまず考えられないことであり、むしろかつての黄金時代を知るファンが、優勝するようになった阪神を「阪神らしくない」と否定するぐらいである。
  • なお、2002年9月24日にも巨人は甲子園球場で優勝を決めているが、その際、この事件を懸念して厳重な警備体制が敷かれ、マスコミやインターネット上では1973年の事件の先例を警鐘する発言がでた。もっとも、この時は阪神が優勝戦線から脱落していたことと、優勝決定試合が阪神のサヨナラ勝ちで終わったこともあり、騒動は起こらなかった。
  • 上記も含めて過去の多数の事件と粗暴な野次などから阪神ファンの粗暴なイメージは根強く、実際2005年の日本シリーズでは阪神は4連敗で対戦相手の千葉ロッテマリーンズに甲子園で日本一を決められたが、その際に一部のファンが「ロッテファンを祝福した」と因縁をつけて同じ阪神ファンに暴行を振るっている。

史上最短試合と史上最長試合

  • 1946年7月26日の対パシフィック戦(西宮)では13:15の開始から14:10の終了まで試合時間わずか55分という日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した(1-0で勝利)。この試合では先発の渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝利、またパシフィック先発・湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった(ファウルが少ないのは当時のプロ野球の特徴で、1時間以内で終わった12試合はいずれも1リーグ時代のものである)。なお1940年8月11日の対阪急戦(大連、1-0で勝利)は史上2番目となる試合時間56分(開始16:55、終了17:51)の記録が残っているが、この中には阪急捕手井野川利春の突き指の手当ての時間が含まれており、これがなければ試合時間は52分ぐらいで済んだのではないかと言われている。現在では、投手の投球間隔の変化やグラウンド整備、投球練習などの多用により、コールドゲームであっても更新は絶望的である。
  • 1992年9月11日、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長試合時間も記録した。この試合では9回、八木裕の打球がレフトフェンスのラバーに当たった上でスタンドに入り、いったんはサヨナラ本塁打とされ、スコアボードにも9回裏にスコアが表示されたが、ヤクルトのレフト・城友博とセンター・飯田哲也が即座に猛抗議した。このようなケースは公認野球規則の想定外の出来事であったため、審判団の協議によりエンタイトルツーベースに訂正された(ルールブックに記載されていない出来事を審判団がその場で判断するのは妥当であり誤審ではない)。しかし中村勝広監督は当然この判定に納得せず、37分間にわたって試合が中断した。そのまま延長戦となったが決着はつかず、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)6時間26分の熱戦の末、3-3の引き分けとなった。後々、この試合で勝てなかったことが優勝を逃した原因と言われた。また、この試合の終了時刻である翌日午前0時26分は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻である。2001年にパ・リーグだけでなく、セ・リーグにおいても延長戦が12回に短縮されたため、試合時間の更新は見込めない(※)。なお、後日談として、このとき最初に「ホームラン」のジャッジをしていた二塁塁審・平光清は長時間にわたる中断を招いた責任をとり、このシーズン限りでセ・リーグ審判員を退職している。
    • ※但し終了時間としては、2006年5月21日のヤクルト-ソフトバンク戦において0時12分という終了時刻が出たことから、上記のような抗議が長引けばあり得るかもしれない。なお、この時は東都大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。

投手の偵察メンバー第1号

2度の放棄試合

  • プロ野球において、複数の試合を放棄試合として没収されたのはパシフィックとタイガースの2チームだけである。パシフィックについては、プロ野球が再開された1946年に、戦前までタイガースに所属していた藤井勇らを強行出場させたため、彼らが出場した4試合ともに試合終了後に没収試合(試合記録は成立したがスコアは0-9でパシフィックの負け)となっただけであり、試合途中で複数回にわたって試合を没収されたのは2度の放棄試合を記録したタイガースだけである。
  • 1回目の放棄試合は1954年7月25日中日大阪球場(当時甲子園には設備がなかったため、ナイターは大阪球場で行った)に迎えた試合。10回裏の攻撃で杉村正一郎球審へ暴力行為をはたらいた藤村富美男が退場を宣告されたが、杉村球審は「退場」とは言わず「風呂で汗を流しては」などと言い、これを藤村が理解していなかったため、本当に風呂で汗を流した後再び打席に立とうとして杉村球審に阻止された。この光景が奇異に写ったのか、事情を理解していないファンがグラウンドになだれ込んで抗議を行い、事態収拾が付かなくなったため、ホームチームであるタイガースに責任があるとして没収試合となった。この騒動で藤村は出場停止20日制裁金5万円、松木謙治郎監督は出場停止5日制裁金3万円の処分を受けた。
  • 2度目は1967年9月23日、地元甲子園に大洋を迎えた試合。1回表に大洋が3点を奪い、なお2死満塁で森中千香良を打席に迎える。2ナッシングからジーン・バッキーの投げた3球目を森中は空振りし、捕手和田徹がショートバウンドで捕球し森中にタッチしようとしたが、森中はベンチに引き上げようとしていたため「1塁に行く意思がない」と判断。森中にタッチ、ホームベースを踏む、1塁送球のいずれも行わずにボールをマウンドに転がしてベンチに引き上げた。これを見た大洋ベンチは森中に1塁に走るよう、また3塁走者の松原誠には本塁突入を指示。松原が生還したことで大洋に追加点が入った。
    ここで大谷泰司球審が阪神ベンチへ行き、藤本定義監督に「今のは3ストライクのジェスチャーで、アウトの成立ではない」と説明(この場面では振り逃げが成立するため、スリーストライクをとられた時点ではアウトとならない)し、阪神ナインに再び守備につくように命じた。これに対し藤本は「スリーアウトと言ったから和田は引き上げた」と反論し、後藤次男山田伝両コーチを交えて抗議。その際に大谷の胸を何度か突いた。33分の中断後、大谷が「暴行を働いた藤本監督を退場させることを条件に試合を再開する」と説明したが、これに対し阪神側の態度が再び硬化。その後も阪神ナインは守備につくのを拒否し続けたため、放棄試合が成立した。
  • 2005年9月7日にも対中日戦(ナゴヤドーム)で岡田彰布監督が審判の判定に不服を申し立て、放棄試合になりかけた試合があった(9.7の決戦)。
    3-1で迎えた9回裏・無死2・3塁の場面で、谷繁元信が2塁ゴロを放った。2塁手関本健太郎がバックホームしたが判定はセーフとなり、3塁走者の