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鹿内 春雄しかない はるお1945年5月15日1988年4月16日)は、昭和後期(1980年代後半)のフジサンケイグループコミュニケーション会議議長。北海道出身。初代議長である鹿内信隆の長男として生まれる。14歳までは信房という名前だったが、15歳のときに春雄と改名(その理由に母の帰依していた霊能祈祷師の影響があったと言われる)。妻の美津子(頼近美津子)は元NHKアナウンサー。姉は女優奈月ひろ子(旧姓・鹿内)。鹿内宏明は義弟。

来歴・人物

フジサンケイグループ総帥の後継者として期待する両親の元で、反発しつつも屈折した学生時代を送る。慶應義塾高等部を落第しアメリカへ留学、ボストン大学に入学するも中退する。帰国後、経団連の植村甲午郎会長の秘書やニッポン放送勤務等を経て、1977年産経新聞社取締役。1986年に代表取締役会長、フジサンケイグループコミュニケーション会議議長に就任。1985年にFCG構想を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『目玉マーク』の制定、テレビ放送の高品位化、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行う。

父親である信隆が進めた「正論」路線は継承するものの、「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『ビルマの竪琴』『南極物語』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。

1970年に信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離した。制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。(このとき組合書記長だった日枝久や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。)

そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき日枝久(現会長)も40代であったが役員に抜擢した。

1988年4月16日死去。享年42。学生時代より、肺結核や肝臓に障害等、健康を害していたが、祈祷師を信仰する実母が、近代医学の治療を受けさせなかったのが、遠因のひとつといわれる。

エピソード

  • ヤクザの女に手を出し、ヤクザに押しかけられた直後の役員会で「みんなも女に気をつけるように」と注意喚起。
  • 入社最終面接で「きみ、童貞かね?」という際どい質問をしていた。これは人間性を見るためあえて際どい発言をしていたとのこと。
  • 八木亜希子元フジテレビアナウンサーのフジテレビ入社最終面接で、“ミュージカルが得意”と履歴書に書かれていた文言に目を付け、その場で実際に踊らせた。
  • 死後に「鹿内春雄遺稿集」が社員全員に配られた。


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